大王墓の墳型は進化ではなく出自の事情、当時の政局によるものなのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #029
古墳時代後期にあたる時代は、聖徳太子廟(大型二段円墳)はじめ、父の用明天皇陵(方墳)、伯父・敏達(びだつ)天皇陵(前方後円墳)、伯母・推古天皇陵(方墳)、孝徳天皇陵(小型円墳)など多くの形状の古墳がある。この時代において、墳型のバラエティが富んでいるのはなぜだろうか? 大阪府南河内郡太子町磯長地域にある古墳で考察してみたい。
用明・推古天皇陵は方墳なのは当時権力を持った蘇我系天皇だから
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大阪府南河内市太子町磯長 叡福寺聖徳太子廟/撮影柏木宏之
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大阪府南河内市太子町磯長 叡福寺北古墳/撮影柏木宏之
今回は、大阪府南河内郡太子町磯長(しなが)地域にある古墳群で歴史遊びをしてみましょう。
ここには敏達天皇陵(前方後円墳)、推古天皇陵(方墳)、用明天皇陵(方墳)、孝徳天皇陵(小型円墳)、聖徳太子廟(大型二段円墳)、小野妹子墓(塚)、二子塚古墳(双方墳)などがあり、さまざまな墳型が集合したようにバラエティに富んでいます。
敏達天皇陵は磯長古墳群の中では唯一の前方後円墳で、伝統的な天皇陵です。
敏達天皇の後ろ盾は蘇我氏ですし、皇后は後の推古天皇である蘇我系の豊御食炊屋皇女(とよみけかしきやのひめみこ)ですから蘇我氏の領地である磯長地域に蘇我氏の力で古墳を造営したのでしょう。
しかし、用明天皇・推古天皇陵は方墳です。よく大王墓の墳型が前方後円墳型から方墳型に移行して八角墳型になるといわれますが、それは進化ではなく単に出自の事情、当時の政局によるものです。
つまり、用明・推古は共に蘇我氏が絶対権力を持った時の蘇我系天皇だから方墳なわけです。
そう考えると謎の二子塚古墳も蘇我氏直系の墓だと考えるべきでしょう。
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前方後円墳 敏達天皇陵 著者作図
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方墳 用明天皇陵 推古天皇陵 著者作図
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二段円墳 孝徳天皇陵 著者作図
7世紀中葉以降の技術の夾紵棺なので改葬か?
それはともかく、まずは聖徳太子廟についてです。
実は、叡福寺北古墳と呼ばれる聖徳太子廟の完工時期は、太子が亡くなった622年ごろよりも後になります。この古墳も寿墓といって生前から築造されていただろうと考えられますので、改築されている可能性があります。
この時代の高貴な死者は、殯宮(もがりのみや)に安置されて誄(しのびごと)という大喪礼を行います。考えてみると、遺体はどんどん腐敗しますからとんでもない臭気を発するのではないかと思いますし、何とも理解しがたい風習ですが、大古墳に葬られる貴人ほど古墳の仕上げや大量の埴輪を製造する時間が必要ですので、その期間を殯(もがり)としたのではないかと思います。
聖徳太子も例にもれず殯をされました。
石室に置かれた3台の棺台の加工手法は7世紀(600年代)後半、貴人の棺である最高級の夾紵棺(きょうちょかん)も7世紀中葉以降の技術ではないかと考えられるので、3人のご遺体は後年に改葬されたのではないかと疑われますが、古代では改葬は普通に行われている行為です。
太子は蘇我のパリパリのエリートですから蘇我の磯長に埋葬され、皇太子なので円墳なのでしょう。
また山裾の傾斜地に造営される円墳は楕円形になるそうで、特別な意味があるわけではないようです。
このように磯長地域の古墳群はさまざまな形態を残してくれていて、6世紀末から7世紀半ばの大和王朝の人間関係と権力構造を示してくれているので、実に面白いのです。
歴史遊びはまだ続きます。
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Google Map より 囲みは著者加筆作成
(続く)