大阪府太子町磯長古墳から浮かび上がる蘇我氏 vs.天智系との関係とは?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #030
古墳を研究するときに、造営年代や被葬者を探るのは難しいけれど面白い! そして、それぞれの時代にはそれぞれの政治的事情があり、古墳の研究から当時の事情までがわかってくる。今回は、蘇我氏の絶頂期から突然の滅亡期を古墳から探ってみる。
天孫族は基本が円墳なのに対し方墳を造っていた地元王家
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推古天皇陵/著者撮影
大阪府南河内郡太子町の磯長(しなが)地域に形成された古墳群は、まさに飛鳥時代に君臨した蘇我本宗家の絶大な権力の痕跡を現代に示してくれます。
天孫族(てんそんぞく)は基本が円墳(えんぷん)で、王墓はそれに前方部が施工されて前方後円墳となります。一方、大王家の後ろ盾となる地元王家は方墳(ほうふん)を造ります。誤解を恐れず大胆に述べると、大王家やその部の民である物部氏などは円墳で、天孫族とは一線を画す出雲地域や地元の絶対権力者は方墳を造ったようです。
この時代、蘇我氏は大王家の外戚として大権力を行使する一方の王家ですので、墳墓は方墳です。
磯長地域はまさに蘇我氏の墓域ですので、蘇我氏が最高権力者だった時代の人々の墓が造営されます。
敏達(びたつ)天皇陵は前方後円墳ですが、皇后は稲目の孫娘で馬子の姪にあたる豊御食炊屋皇女(とよみけかしきやのひめみこ)です。後の推古天皇ですから、敏達天皇朝は蘇我本宗家の後ろ盾で成立していた王朝です。だからここに蘇我氏の力で陵墓が造られたのでしょう。
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敏達天皇石柱陵
中大兄皇子と鎌足の政権からすると蘇我系扱いの孝徳天皇陵
孝徳天皇はやや複雑ですが、蘇我氏のバックで即位した皇極(こうぎょく)女帝の実弟で、乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家が滅亡してから即位した人です。大化の改新の詔をしたその人で、むしろ蘇我本宗家の敵側の天皇ですが、結局クーデター政権の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や藤原鎌足らと関係が悪化して、ついには見捨てられた天皇です。
時代的には前方後円墳か八角墳に埋葬されてもおかしくないのですが、敵側の蘇我氏の領土に築かれた円墳を陵墓としています。中大兄皇子と鎌足の政権からすると、気に入らない大王だったといえるかもしれません。だから滅んだ蘇我本宗家の墓域に地味に葬られているのでしょうか?
蘇我系の用明天皇と推古天皇がこの墓域に葬られるのは当然でしょうし、その墳型が方墳であるのもうなずけます。
「たら・れば」で申し訳ありませんが、もしも厩戸皇子(うまやどのみこ)、すなわち聖徳太子が即位して天皇になって長生きをしていれば、斑鳩(いかるが)かこの地域に大方墳を築いて葬られたかもしれません。
しかし太子は数えの49歳で皇太子のまま亡くなっています。この時、蘇我馬子も推古天皇も健在です。
蘇我の期待の星だった太子は磯長墓域に葬られて当然のように思いますし、皇太子であるがために円墳を造営されたのでしょう。
厩戸皇子が即位をして長生きをしていれば乙巳の変も無かったでしょうし、白村江のいくさも無かったでしょう。天智天皇も藤原鎌足も歴史に登場しなかったかもしれません。ただ大化の改新のような近代化政策はもっと推進されたのではなかったでしょうか。
つまり聖徳太子という人の影響力は非常に大きく、また早世したことによる影響も甚大なものだったといえるのです。
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聖徳太子廟/著者撮影

聖徳太子廟前バス停/著者撮影