上宮王家滅亡の理由を探る④ ~ 聖徳太子の仏教観を推察してみよう
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #035
仏教興隆を目指して、大和の近代化と国際化を急いだ聖徳太子。その人となりや事績は伝説化されるほどの聖人である。しかし太子は出家などしていない。太子にとっての仏教とは何だったのだろう?
仏壇の原型ともいえる推古天皇の御物
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平成玉虫厨子右側面捨身飼虎圖(しゃしんしこず) レプリカ 高山市・茶の湯美術館蔵/株式会社アーサーバイオ/アーサー技建提供
法隆寺にある「玉虫厨子(たまむしのずし)」は、今でいえば仏壇の原型ともいえるでしょう。当時は先祖の位牌などを祀るわけではなく、仏像を安置して祈りをささげていました。
この玉虫厨子は『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』に「宮殿像弐具(くうでんぞうにぐ) 一具金泥押出千仏像(いちぐ こんでいおしだしせんぶつぞう」とあるのがそれだといわれています。また、「推古天皇御物」とも伝わっています。
ここで取り上げたいのは玉虫厨子の須弥座左右に描かれている仏画です。
正面向かって左側面には「施身聞偈図(せしんもんげず)」右側には「捨身施虎図(しゃしんしこず)」が描かれています。これはお釈迦様の前世譚の中から選ばれた話で、いずれも前世で修行中の釈迦がわが身を犠牲にしてまで尊い仏説の真髄を学ぼうとする話と、わが身を餌にして飢えた虎の親子の命を救うという凄まじい話です。
共通するテーマは「わが身を犠牲にしてでも真理を知る探求心と、たとえ虎の親子にでも命を捧げて救うという大慈悲の心」です。
この玉虫厨子は、まちがいなく聖徳太子が鞍作止利(くらつくりのとり)仏師に依頼して作り上げた物でしょう。推古天皇に捧げて、太子に下賜(かし)されたのでしょう。法隆寺に施入される前は太子ゆかりの橘寺にあったそうです。仏画二題のテーマは『十七条憲法』の主題と根底で重なる部分があります。

奈良時代の役人装束再現/柏木撮影
太子は宗教者ではなく、飛鳥時代の徳治政治家
これほど仏教興隆を目指して活動した聖徳太子が出家していないのが不思議だという人がいます。
しかし太子は「寺の奥深くにいて仏教の真理を自分が知るだけでは大衆を救うことにはならない。」と考えた人で、やはり飛鳥時代の大政治家だったのです。太子は宗教者ではなく、現実の世をより良く導きたいという大願を立てたのです。仏教用語では菩薩行といわれるものでしょうね。
つまり聖徳太子の政治方針は「徳治政治」だったといえるでしょう。
人の上に立って政治に責任を持つ執政者や役人は、大きく奥深い「人徳」を以って職務にあたらなければならないと考えておられたのでしょう。冠位十二階も最高冠位は「大徳」次が「小徳」ですからね。
聖徳太子は大寺の奥深くに姿を隠すのではなく、堂々と市井に自らの行動を示し、あるべき権力者の姿の見本を示されたのでしょう。
太子の仏教観は極楽浄土を目指すだけではなく、現世における大願成就の菩薩行をすべての執政者に要求するという実に厳しいものだったと、私は考えています。
命がけの責任を以って政治にあたるという理想の姿を自ら示されたのではなかったでしょうか。
余計なことですが、現代の政界と行政官僚に一人でも、その何十分の一でも志と行動の伴う方がいらっしゃればと願っています。