古代の歴史に登場する「豪族」とはいったい何者だったのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #036
日本の古代史に登場する豪族とはいったいどんな役割と、どれほどの勢力をもっていたのだろうか? 豪族にもランクや種類があったのだろうか? 豪族がいなければ、大王がいても国家運営はできなかったとも言われる。今回は豪族について考えてみよう。
大王と朝廷にかかわる「中央豪族」と地方行政に携わる「地方豪族」
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短甲と呼ばれる古代の鎧(レプリカ)資料館展示品 柏木宏之撮影
日本史には「豪族」という集団が当たり前のように登場しますが、そもそも豪族ってどんな人たちだったのでしょうか?
簡単にいうと、豪族とは古代の大王政権を支えた実力職能集団のことです。豪族がいなければいくら大王がいても、国家運営はできませんでした。つまり実際に国家の運営を司る集団が豪族集団だといえます。
その豪族も大王と朝廷に直接かかわる「中央豪族」と、地方行政に携わる「地方豪族」に大きく分かれます。飛鳥時代になると国家制度も徐々に整い、臣(おみ)・連(むらじ)などと種類わけがされます。
大雑把に分類すると、王権のある大和地方に元々いて領地を支配していた中央豪族は「臣」、代々大王家に職能を以って仕える職能豪族が「連」となります。
ですから蘇我氏は臣で、その臣のリーダーになると「大臣(おおおみ)」となり、物部氏は連で、やはり連のリーダーとして「大連(おおむらじ)」となります。
物部氏の職能はというと、軍事・警察・神事が主で、製鉄や金属加工なども司っていたようです。
そもそも「物(もの)」というのは、「物の怪(もののけ)」の「もの」で、人智の及ばない神の領域を大王に代わって司る氏族でした。いくさに勝つにも神のご加護が必要でしたから、物部氏には物部神道と呼ばれる神主としての側面もあるのです。天理市にある石上(いそのかみ)神宮は物部氏の守った神社で、実際には当時の武器庫でもありました。
蘇我氏はどうかと言えば、おそらくかつての地元王だった葛城氏の家督を引き継いだ在郷王家だと私は思っています。大王家に娘を嫁がせる権利を持ち、実際に外戚として大きな権力を持ちました。そのうえ、海外との交易や国際情報を掴む外交、その結果生み出される巨大な財力を以って国家の財政を司りました。
大和王権は、そういった豪族らが中央で政権を支えていたのです。
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4世紀ごろの豪族本拠地イメージ図/柏木宏之がGoogleMapより加工作成
当時の中央豪族を挙げてみましょう。
蘇我氏 物部氏 大伴氏 膳(かしわで)氏 東漢(やまとのあや)氏 西漢(かわちのあや)氏 出雲氏 吉備氏 葛城氏 巨勢(こせ)氏 中臣(なかとみ)氏 平群(へぐり)氏 和珥(わに)氏 阿部氏 穂積(ほづみ)氏 などなどいくらでもいます。
地方豪族には、宗像(むなかた)氏 尾張(おわり)氏 大海(おおあま)氏などがありました。主に県主(あがたぬし)や国造(くにのみやつこ)に任命されて領地の地方行政を司ります。
つまり古代の天皇家(=大王家)は、盟主としての権威を以って統治する王権であり、実力集団の豪族グループが国家・政権の運営を担っていたのです。豪族集団がいなければ、古代の国家造りはできなかったというほど、重要な集団だったのです。