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邪馬台国=大和説から浮かび上がる卑弥呼の正体とは?


女性としては日本史上、おそらく1・2の知名度を争う。しかしその姿は、神秘のヴェールに包まれている――それが卑弥呼だ。邪馬台国の「女王」と伝わるものの、本当に「王」だったか明らかではない。想像がひとり歩きしている印象すら覚える謎の女性の実態は、一体どんなものなのか?


 

魏の外交記録が「女王」と表記したのは1回限り

塚原古墳公園(熊本県熊本市南区)にある巫女の石像。卑弥呼が存在したとされる3~4世紀に近い時代の、人々の祭りの様子を表現している。卑弥呼の姿に関する記述は『魏志倭人伝』にも残っておらず、謎に包まれている。

 卑弥呼は倭国、つまり日本で「女王」と呼ばれていたわけではない。卑弥呼の時代、3世紀の中国の「王号」は、皇帝の同族だけが用いる特別高貴な称号であった。

 

 魏の皇帝・曹芳(そうほう)が卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の王号を授けた。そのため魏朝の歴史を記した『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は彼女を倭王として扱った。しかし。卑弥呼は国内では「姫御児(ひめみこ)」や「姫児(ひめご)」の敬称で呼ばれていたらしい。

 

 古代の中国で「王」の語は、「国」と呼べるほどの有力な集団の君主を表わすものとしても使われた。『魏志倭人伝』は、倭国の地理や習俗を記した前半部と、邪馬台国と魏の国交の歴史を伝える後半部とから成る。

 

 この前半部は、魚豢(ぎょかん)が編集した『魏略(ぎりゃく)』という『魏志倭人伝』に先行する歴史書をもとに書かれた。この『魏略』は後漢の時代にできた文書を写す形をとって倭国のことを説明した。

 

 そして『魏略』は、卑弥呼を「女王」、彼女が治める邪馬台国を「女王国」と表記した。ここの「王」は、君主を表わす一般的用法に従った文字と見てよい。

 

 女王の君主が治める国は、中国の知識層からみて珍しいものだった。そのため『魏志倭人伝』の前半部は、「女王国」の語を繰り返し用いた。そこには4回も「女王国」の表記が出てくる。その上に『魏志倭人伝』のあとの中国の歴史書にも、倭国や日本の女王がたびたび登場する。

 

 ところが魏の外交記録をまとめた『魏志倭人伝』の後半部は、「女王」の表記を卑弥呼の最初の遣使のところだけに用いた。そしてその後は、遣使のときに親魏倭王になった卑弥呼のことを「倭王」と読んだ。

 

 卑弥呼を倭の女王とする概念は、古代中国が広めたものだった。

 

10代半ばで国を治め80歳前後で死んだ?

 

 では、卑弥呼は、どのような姿をしていたのであろうか。残念なことに、『魏志倭人伝』のなかには、その点に関する確かな記述はない。

 

『魏志倭人伝』の編者である陳寿(ちんじゅ)は、倭国からの朝貢とそれに対する回賜(かいし/答礼品)、制書(せいしょ/皇帝の命令書)の記述に最も重点を置いていた。そのため景初(けいしょ)3年(239)に始まり正始(せいし)8年(247)に至る、倭国の4回の遣使とそれに対する魏朝の対応について信頼し得る記事を残した。

 

 しかし、『魏志倭人伝』には、倭国を「辺境にある大国」とする先入観にもとづく脚色が多く見られる。これは晋朝の帝室(ていしつ)の先祖にあたる司馬懿(しばい/仲達 ちゅうたつ )が、魏の重臣であった時代に倭国の朝貢を実現した事跡を顕彰するための行為であった。

 

 古代中国の宮廷では、儒教が重んじられていた。役人は儒教の文献を学び、儒教の世界観に従って物事を考えた。儒教の基本とされる五経(ごきょう)という経典の中の『尚書(しょうしょ)』(書経/しょきょう)に、このような説がみえる。

 

「中華という文明が及ぶ世界の広さは、中国の都を中心とする一万里(約6600㎞)四方である」

 

 その一万里四方の外側は、「荒服(こうふく)」と呼ばれる未開の地域だとされた。そのため朝鮮半島の韓(かん)や倭は、東方の未開の地である東夷(とうい)とされた。

 

 さらに『周礼(しゅらい)』という古典には、「中華より離れるにつれて女性の比率が多くなる」とある。倭国の使者は、「私は卑弥呼という女性の指示を受けて、魏を訪れた」と報告したのであろう。

 

 それを聞いた儒教に通じた役人は、「女性が多い東夷の辺境の国の使者が訪れた」と喜んだとみてよい。

 

 魏の役人が「倭国の女王」として扱った卑弥呼の人物像を探る手がかりはほとんどない。『魏志倭人伝』は、卑弥呼が180年代半ば頃に、人々の求めによって30の国々の君主になったという。

 

 そして、『魏志倭人伝』の前半部の倭国の地理や習俗を記した部分に、こうある。「卑弥呼は鬼道(きどう)を行ない。年は長大で夫はいない」

 

 この部分は、205年前後に邪馬台国を訪れた使者の見聞をもとに書かれたといわれている。当時の中国では、30台半ばすぎの年齢を「長大」と表現していた。卑弥呼は35〜38歳くらいで後漢の使者を迎えたことになる。

 

 そうすると、卑弥呼は15〜18歳の頃に倭の30国を治めるようになり、70歳前後になって魏に最初の遣使を行なった。そして248年に魏の張政(ちょうせい)が来訪した頃に、80歳前後で没したとなる。

 

邪馬台国=大和説を踏まえると候補は3人に絞られる

 

「卑弥呼は誰だったのか」という謎は、古代史上の多くの謎の中でも最大の難問といってよい。「邪馬台国は大和か九州か」という論争が解決したとしても、大和にも九州にも複数の卑弥呼らしき女性がいる。

 

 それでも私は、現在の時点になってようやく、卑弥呼であった可能性が最も高い人物が浮かび上がってきたように見える。そのことは、この後の桜井市箸墓古墳の解説のところで詳しく説明しよう。その古墳は、王家の巫女であった倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓だと伝えられる。

 

 大和説をとるか、九州説をとるかによって、邪馬台国の姿は大きく変わってくる。大和説によれば、邪馬台国は北九州を含む西日本に勢力を張ったヤマト政権だったことになる。

 

 そして九州説では、邪馬台国は北九州の小国のひとつとされている。現在のところ考古学者の半数以上が、邪馬台国大和説を支持している。そのため大和説と九州説の勢力比は、7対3程度になってきた。

 

 邪馬台国大和説をとった場合に、卑弥呼に比定し得る有力な女性が3人いる。ひとり目は仲哀(ちゅうあい)天皇の妃の神功(じんぐう)皇后である。そしてふたり目が崇神(すじん)天皇を支えた巫女の倭迹々日百襲姫命、3人目が垂仁(すいにん)天皇と景行(けいこう)天皇の時代の倭姫命(やまとひめのみこと)である。

 

 神功皇后は三韓遠征を行なって朝鮮半島の国々を従えた女性とされるが、彼女は7世紀に創作された英雄伝説の中の人物にすぎない。しかし、『日本書紀』の編者は、彼女を卑弥呼になぞらえた。

 

 残るふたりは3〜4世紀に実在した女性になる。倭迹々日百襲姫命のあと、倭姫命が王家を支えたとされる。そして近年になって、倭迹々日百襲姫命の箸墓が、卑弥呼の年代に対応する3世紀半ばのものとされた。

 

 邪馬台国九州説をとれば、卑弥呼は神埼(かんざき)市吉野ヶ里(よしのがり)遺跡などの北九州に多くある小国関連の遺跡のひとつの巫女になる。

 

 北九州には、早い時期から大陸と交易した小国が多くみられた。大量の朝鮮半島産の土器が出土した糸島市三雲(みくも)遺跡は、そうした小国関連の遺跡のひとつである。しかし、邪馬台国で「ひめこ」の敬称で呼ばれた女性指導者の実名は明らかではない。

 

監修・文/武光誠

『歴史人』4月号「古代史の謎」より)

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