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「ヤマト王権」はどこに存在し、どの程度の地域を支配していたのか?

今月の歴史人 Part3


3世紀後半〜6世紀の日本に存在したとされる「ヤマト王権」。 誰を王とし、どの程度の地域を支配したのか? さまざまな説が飛び交い、長年にわたって議論が続いているが、現在明らかとなっている範囲でヤマト王権の謎に迫りたい。


Q.ヤマト王権はどこにあり、支配地域はどの程度だったのか?

 

A.王権本拠は奈良と推定され、埼玉周辺から熊本周辺まで権勢が及んだとされる。

神武天皇 ヤマト王権の始祖という説もある日本初代天皇。神の末裔ともされ、様々な伝説が飛び交う。 『国史大和櫻』/個人

 日本人にとって「ヤマト」という 言葉は大変重要な意味を持つ。それは「日本」という言葉や国家像ができるより、はるか以前から使われていたからである。大和を「だいわ」 とは読まずヤマトと読み、日本と書いてヤマトと呼ぶこともある。律令制国家のもと「日本」の国号が定着するが、それ以前の権力の集合体をヤマト王権(ヤマト政権)と称す。

 

 ヤマト王権は、どこにあったのか。それは巨大な墳丘を持つ古墳の存在が明らかにしている。倭の女王の卑弥呼が世を去った3世紀半ばから6世紀にかけ、近畿地方から瀬戸内海沿岸各地に巨大古墳(前方後円墳)がつくられるようになった。大和国、つまり現在の奈良県にそびえる三輪山の山麓に東西2㎞、南北1・5㎞にわたって広がる纏向(まきむく)遺跡がある。そのなかには全長280mほどの箸墓(はしはか)古墳をはじめ、纏向石塚古墳やホケノ山古墳など20数基の古墳が集中している。とくに箸墓古墳は築造年代や規模から卑弥呼の墓と推測されることもある。

 

Q.ヤマト王権はどのような制度を敷いたのか?

 

A.氏姓制で国家組織を整備し、地方官を設置することで地方支配を強めた。

ヤマト王権の仕組み ヤマト王権は「大王と豪族の 連合政権」であり、このような政治体制は300年ほど続いたとされる。豪族の地位は王権への貢献度合いや関係性によって決定された。

 権力者の象徴ともいえる巨大古墳は、この大和国から河内国(大阪府南部)を中心とした近畿地方に多く南部)を中心とした近畿地方に多く点在する。このことから大和地方の王(大王)を中心に、東日本を含む各地の豪族らが政治的に結びついて連合体が形成されていたと考えられる。これがヤマト王権である。その盟主が「大王」である。「王」の呼称は中国大陸に由来すると思われ、 日本の「王」の初出は後漢の皇帝(光武帝)が57年、日本列島にあった「奴国」の統治者に「漢委奴国王」と刻んだ金印を贈ったというものである。

 

 5世紀後半には、王の尊称である 「大王」の号が現れる。当初、統一国家の政府を意味する朝廷の成立はなかったと考えられるが、5世紀後半の獲加多支鹵(わかたける)大王(埼玉県・稲荷山古墳出土の鉄剣銘に見える)のとき、九州から関東地方までを勢力下に置いた。このように国内支配が広がりをみせるころ、大王はヤマト政権の王の称号として用いられた。それは複数いた王のなかで最高の権威と権力をもつという意味があり、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。

 

Q.「大王」とはどういった存在だったのか? 天皇とは違ったのか?

 

A.伝統的な意味をこめた尊称で天皇を「大王」と称すことも多い。

 7世紀初頭の推古期あるいは後半の天武朝から持統朝にかけて天皇号が成立する。天皇号の成立以後、歴代の権力者(大王あるいは王)に対しても天皇の称号が付された。『万葉集』などでは、その伝統的意味をこめた尊称で天皇を「大王」(おおきみ)と称すことも多い。

 

 ヤマト政権は、大陸から大量の鉄製農具や武具、それに伴う技術や文化を輸入して軍事力を整えた。5世紀から6世紀にかけては氏姓制の国家組織を整備し、また国造制(こくぞうせい)によっ て地方組織の支配を強化した。7世紀からは、それらを下地にして律令国家の形成、つまり日本国の成立へと向かう。

 

 

監修/水谷千秋・文/上永哲矢

『歴史人』4月号「古代史の謎」より)

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