聖徳太子と蘇我氏ゆかりの地を歩く
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #048
前回は蘇我氏ゆかりの甘樫丘や、水落遺跡を訪ねた。今回は飛鳥大仏が残る飛鳥寺や酒舟遺跡に足を運び、蘇我氏の時代を振り返りたい。
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飛鳥寺 撮影/柏木宏之
飛鳥寺
水落遺跡から歩いて5分ぐらいのところに飛鳥寺があります。
飛鳥寺は元の寺名を「法興寺」といいました。「仏法を盛んに興す拠点寺」という意味があります。
崇峻(すしゅん)天皇の発願のように記録するものもありますが、実際は大権力者の蘇我馬子が建立しました。馬子が物部守屋を滅ぼした戦勝記念のようなお寺です。
元の寺域は南北に324m、東西は北辺が216m、南辺が260mの巨大な台形だったそうです。一塔三金堂という独特な伽藍配置で、飛鳥時代初期の巨大建築物でした。
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飛鳥寺金堂 撮影/柏木宏之
また、本尊は金銅製の釈迦如来坐像で、丈六仏(じょうろくぶつ)と呼ばれた大仏です。座高は4.8mで仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が造像しました。
長い歴史の中で伽藍は荒れたり全焼したりしましたが、飛鳥大仏は最初に据えられたまま現代に伝わっています。この大仏様は蘇我馬子や聖徳太子をご存じだということですね。
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飛鳥大仏 撮影/柏木宏之
飛鳥寺の西門を出るとそこに「入鹿の首塚」があります。鎌倉時代の五輪塔で、今も花が活けられて近隣の人々に守られています。
さてそれでは飛鳥寺を出て、酒舟(さかふね)遺跡へ参りましょう。
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入鹿の首塚 撮影/柏木宏之
酒舟遺跡
もともと丘の上にある「酒舟石」という謎の石造物が有名でした。本居宣長も旅行記の『菅笠日記』に取り上げていますので、ずいぶん昔から人気の遺物です。
その途中にあるのが斉明(さいめい)天皇期の「東の山の石垣」です。
そしてさらに平地に戻ると、2000年に発見された「小判型・亀形石造物」があります。おそらく酒舟石もセットの導水施設なのでしょうが、その用途は未解明です。こういう時には便利な言葉がありまして、「祭祀の跡」といわれています。
つい先ごろのことですが、聖徳太子ゆかりの大阪四天王寺の供養施設「亀井堂」の亀形石造物は、全く同時代の物だということがわかっています。
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酒舟石 撮影/柏木宏之
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酒舟石遺跡 撮影/柏木宏之
この酒舟遺跡には大きな駐車場がありまして、そこには小さなレストランやショップもあります。ここから北東に歩くと飛鳥資料館があります。南に歩くと飛鳥京跡です。
飛鳥資料館
飛鳥資料館には明日香村にある主な石造物のレプリカが展示されています。館内には漏刻の復元モデルや山田寺跡から奇跡的に発見された連子窓(れんじまど)、またその再現物などなど興味深い展示が数多く必見の資料館です。
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飛鳥資料館 撮影/柏木宏之
飛鳥京跡
酒舟遺跡から南に歩くと、右手に「飛鳥京跡」があります。飛鳥京跡は、以前は「伝 板蓋宮(いたぶきのみや)跡」と呼ばれていました。
しかし、現在の遺構は天武天皇時代の浄御原宮(きよみはらのみや)遺構の可能性が高いので、呼び方が変わっています。
この遺構のさらに下に板蓋宮が埋まっていると考えられています。そこは蘇我入鹿が645年に斬られた場所ですね。そう、あの乙巳の変(いっしのへん)の事件現場なのです。
西を眺めると甘樫丘がすぐそこに見えます。北には飛鳥寺があります。
中大兄皇子と藤原鎌足らのクーデター軍は、この場所で入鹿を暗殺してからかつての法興寺、すなわち今の飛鳥寺に走って立てこもり、大本営としたのです。当時は法興寺に五重塔がありましたから、軍団はランドマークの塔を目指して走ったのでしょう。
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飛鳥京跡(伝板蓋宮跡) 撮影/柏木宏之
広大な法興寺は頑丈な版築塀に囲まれていますから、砦にもなったのです。そして別動隊が甘樫丘(あまかしのおか)頂上の蘇我蝦夷(えみし)を襲い、邸宅から黒い煙と紅蓮の炎があがりました。こうして大化の改新が始まったのです。つまり中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足の時代に移ります。今、皆さんはその歴史の現場を歩いているのですね。
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地図)飛鳥遺跡観光マップGoogleMapより加工作成/柏木宏之