大化の改新が始まった甘樫丘の地を訪ねて
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #047
日本で国家づくりが大きく進展した飛鳥時代の遺構が、実は現代にも豊富に残されている。前回の記事では、万葉展望台と呼ばれる甘樫丘(あまかしのおか)に登ったところまで紹介。今回は飛鳥の景色を、高台から見るところから始めたい。
甘樫丘
海抜148mの小高い丘で、道も階段も整備されていますので、左右に林立する木々を愛でながらゆっくり登ってください。
ちょっとハアハア言い出した頃に頂上に到着します。
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甘樫丘の東側景色と背後に見える畝傍山 撮影/柏木宏之
西側には葛城山系が見え、手前に珍しい形をした「畝傍山(うねびやま)」がよく見えます。右に目を向けると、美しい円錐形の「耳成山(みみなしやま)」が奇麗に見えます。もう少し目を右に向けると「天の香具山」が見えますね。
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飛鳥遺跡観光マップGoogleMapより加工作成/柏木宏之
今度は東側を観てみましょう。
細長く小さな盆地が見えます。ここが飛鳥時代の超一等地「真神原(まばみのはら)」です。よ~く見ると正面下方に小さなお寺が見えませんか? あとで尋ねる飛鳥寺です。
その向こうには山が迫ります。この山々が大和国自慢の「青垣山(あおがきやま)」です。
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東側景色 飛鳥の1等地 真神原遠景 撮影/柏木宏之
甘樫丘東麓遺跡のはなし
この甘樫丘こそ、645年6月12日(旧暦)に蘇我本宗家が滅亡した現場なのです。
東側の裾野付近で発見された「甘樫丘東麓遺跡」は蘇我入鹿の邸宅跡。そして頂上にあったのが蘇我蝦夷(そがのえみし)の邸宅跡だと考えられています。実は長い間、この丘が甘樫丘だという確信が持てませんでした。しかし、この東麓遺跡が発見されて、焼けた土壁や廃材が発見されて、こここそが甘樫丘だと確信されたのです。
中大兄皇子と藤原鎌足らに入鹿が討たれた「乙巳の変(いっしのへん)」、そして大化の改新が始まったまさにその現場なのです。蘇我本宗家はいったいなぜこの丘を要塞化したのでしょうか?そんなことを、景色を観ながら考えてみましょう。
さあ、それでは東側に階段で降りてみましょう。足元に気を付けて下さい。途中に万葉歌碑がありますので、じっくりご鑑賞ください。
「采女の袖吹き返す飛鳥風 みやこを遠見 いたずらに吹く」(志貴皇子)
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万葉歌碑(犬養歌碑)撮影/柏木宏之
麓に降りたら、広い道路の横断歩道を渡ってください。意外に交通量が多いので気をつけて! 渡りきったら旧明日香小学校の敷地で、今は明日香村資料館になっています。
休日には地元の食材を販売したりしている大きな駐車場があります。資料館には明日香村の遺跡遺物がさまざま展示されています。そんなに大きな資料館ではありませんので、たっぷり鑑賞してください。
資料館に寄った後は、南に向かって駐車場を歩いてください。数十メートル先に「水落ち遺跡」があります。
水落遺跡
旧字名が「水落(みずおち)」だったところに、固く版築された遺跡が1972年に発見されます。この年は高松塚古墳の壁画発見に日本中が沸いた年でもありました。
最初、真四角の版築遺跡だったので方墳だと考えられましたが、その後の調査で23本もの柱跡が発見されます。しかもその柱は単なる掘立式ではなく、すべての柱の穴の底にしっかりとした礎石があったのです。他に導水施設跡も発見されました。
そこで、これは『日本書紀』の西暦660年の条に一行だけ記されている「漏刻(ろうこく)」遺跡だということが判明します。漏刻というのは水時計のことで、正確には巨大なストップウォッチのことです。
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再現漏刻(守辰丁人形)ジオラマ 飛鳥資料館 撮影/柏木宏之
この地は日本列島に初めて時報が鳴らされた場所だったのです。漏刻に関してはまた別の機会に詳しくお話ししましょう。私の卒論テーマですからね!(笑)
さあ、飛鳥紀行はまだ始まったばかりです。次回は飛鳥寺に参りましょう!
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水落遺跡 撮影/柏木宏之