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生存から功績まで、すべてが謎に包まれた聖徳太子の素顔とは?

今月の歴史人 Part5


超人的なエピソードと華々しい功績でよく知られる聖徳太子。しかし近年「聖徳太子不在説」も起こり、数々の偉業も本当に太子の功績だったのかといった、疑問が投げかけられている。不在説をはじめとする数々の謎を検証し、太子の実像に迫る。


Q.聖徳太子は実在していなかったのか?

 

A.太子の本名とされる「厩戸皇子」が実在したことは間違いないが、『日本書紀』に記された「聖徳太子」と同一人物かどうかは今でも研究が続いている。

時代を越えたスーパーヒーロー

聖徳太子二王子像(模本) 笏を持って帯刀した聖徳太子の右に弟の殖栗王子、左に長男の山背大兄王を描いたとされる。 出典:ColBase

 日本の歴史上でもっとも有名な人物の一人が聖徳太子である。歴史上の人物の中で、長い時代の間には評価がすっかり変わってしまったという例も少なくない。特に昭和20年(1945)の敗戦を契機に多くの偉人たちの評価が変化した。

 

 そうした中で、今も日本人なら知らない人がいないといってもよいほど有名な人物が聖徳太子といえよう。聖徳太子といえば、仏教の保護者であると同時に政治や外交などにも活躍した「超人」として知られる。もとより、聖徳太子の評価が古代から現代までまったく変わらなかったわけではない。とりわけ、近年の聖徳太子についての評価には見過ごすことができないものがある。

 

 聖徳太子の超人性にはこれまでも否定的な意見があった。しかし、それらは個別的なものへの批判であり、聖徳太子の全体像に及ぶまでには至らなかったように思われる。

 

現代の「聖徳太子」という位置づけ

 

 それがここにきて、聖徳太子を全面的に否定する考えが日本古代史の研究者たちから出されるようになった。すなわち、用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた厩戸皇子という独りの皇族は実在したが、私たちの知る超人的な人物である聖徳太子は実在していなかったというのである。

 

 聖徳太子の超人的なエピソードについては、誰もが一読してにわかに信じられるものではなかろう。加えて聖徳太子の業績全体にわたって検討を加え、それらのほとんどを否定したのであるから、この否定論は大きなインパクトをもたらした。

聖徳太子の主な超人伝説

・生後4ヵ月で話をすることができた。 

・2歳の時 、誰に教わったわけでもないのに、自ら東に向かって合掌し、「 南無仏」と唱える。

・5歳で推古天皇の即位を予見し、人びとを驚かせる。

・11歳で30人以上の子どもが言うことを、もらさず記憶。

・百済から来朝した皇子・阿佐が、 聖徳太子を菩薩として礼拝。

・15歳で父・用明天皇が短命であることを予言。

 その具体例として、高等学校の日本史の教科書の表記をあげることができる。以前は、「聖徳太子」の表記が当たり前であった。それがいつしか 「聖徳太子(厩戸皇子)」となり、近年は、「厩戸皇子(聖徳太子)」とする教科書がみられるようになってきた。こうした流れでいくと、教科書から「聖徳太子」という表記がなくなる日がくるかと思われたがそうは単純にはいかない話のようである。

 

 その理由は1つではないであろうが、大きなものとして聖徳太子に対する信仰があげられるであろう。太子信仰は主に中世以降に広がりをみせ、現代にも及んでいる。しかし、8世紀初めに完成した『日本書紀』 にもすでに聖徳太子の超人的な伝承がみられることを踏まえると、聖徳太子の没後間もなくこうした信仰が始まっていると考えることもできよう。こういった歴史性が「聖徳太子」を支えているのかもしれない。

 

監修・文/瀧音能之

『歴史人』4月号「古代史の謎」より)

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