中国に使者を送った「倭の五王」の正体とは?
古代史の謎のひとつとされる「倭の五王」。讃・珍・済・興・武という名で中国の歴史書に登場するが、その正体はどのような人物だったのだろうか?
中国の情勢が安定したことで日本の記録が正史に復活

雄略天皇
倭の五王のひとり「武」は雄略天皇と推測される。これを足掛かりに父・兄弟である允恭と安康も五王と推定することができる。
東京都立中央図書館蔵
3世紀半ば、邪馬台国が魏へ朝貢したという記録以降、1世紀以上も途絶えていた古代日本の消息が、再び明らかとなるのは5世紀初頭のことだ。
420年に宋が華南に興り、439年に北魏が華北を統一。中国大陸の南北で安定が保たれると、その正史である『宋書』(夷蛮伝)などに倭の五王が登場してくる。その名を讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)という。
421年から430年、最初に名前が挙げられるのが讃である。彼は宋の武帝(ぶてい/劉裕)に朝貢を行い「安東将軍倭国王」に任じられている。438年には倭王の讃が没して、弟の珍が立ったという。珍は同年、宋の文帝に朝献して「安東将軍倭国王」と認められた。451年には済が「安東将軍 倭国王」に任じられているが、済は珍と血縁関係にあったか否かは判然としない。
『梁書(りょうしょ)』(梁書倭伝)には「彌」の没後に子の済が立ち、その死後に子の興が立ったと記されるなど、いささかの食い違いがある。ただし、彌は珍と同一人物かもしれない。
また珍は生前に倭隋(わずい)ら13人に対する将軍号を文帝に求め、これを認められている。この倭隋という人物は平西将軍に任じられており、安東将軍で倭国王の済との関係はわからない。別個の勢力にあって並立していたと考える方が自然だが、あるいは対立関係にあったのか。
462年、済の子である興が「安東将軍 倭国王」の地位を継いだ。さらに477年、興が没して弟の武が立った。武は宋の順帝に「安東大将軍 倭王」に任じられた。それだけにとどまらず、479年に南斉が建国されると、その初代高帝より「鎮東大将軍」に任じられた。502年には、南斉が滅びて梁(りょう)が建国されると「征東大将軍」に任じられているが、このときは実際には遣使していないらしい。
このようにして、ヤマト王権を統べていたと思われる5人の王が計10回にわたって宋へ使者を送り、王と将軍号を賜わっている。その目的は中国の皇帝という絶対的権威に、日本のみならず朝鮮半島での軍事支配権を認めさせ、その勢力争いを優位にしたいというものであったと考えられよう。だが皇帝も倭に朝鮮半島を支配されては不都合と考えたのか、支配権までは認めなかった。
倭の五王は、いずれも中国風の漢字一字で、そのまま読む限り、日本に当てはまる人物はいない。ただ、5人目の「武」に着目すると、彼は21代・雄略(ゆうりゃく)天皇と仮定されている。その手がかりは稲荷山(いなりやま)古墳(埼玉県)で出土した鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」。
また江田船山(えたふなやま)古墳(熊本県)から出土した鉄刀の銘文にある雄略天皇の諡号「大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)」と「武(タケル)」の字が符合する。
そこから推し量ると、武の兄にあたる興は20代・安康(あんこう)天皇、2人の父にあたる済は19代允恭(いんぎょう)天皇。讃と珍はそれぞれ仁徳(にんとく)天皇か履中(りちゅう)天皇、また反正(はんぜい)天皇と比定されるが『宋書』と「記紀」との記述に食い違いがあり、確定には至っていない。
5世紀から6世紀のうちに倭国が遣使した南朝だが、宋~斉~梁~陳と4つの王朝がめまぐるしく興亡した。以後、文献上での遣使はまた1世紀ほど途絶え、次の遣使は600年の「遣隋使」となる(『隋書』)。

船形埴輪
西都原古墳群から出土。外洋航海用の大型船を模して造られたと見られ、こうした船で使者は中国へ向かったとされる。東京国立博物館蔵/出典:Colbase
監修・文/武光誠
(『歴史人』4月号「古代史の謎」より)