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親政を目指した天智天皇は野心に満ちた策謀家だった?

宿敵・蘇我氏を排除し中央主権体制を目指す

中臣鎌足
乙巳の変を主導し、中大兄皇子とともに天皇中心の国家体制の確立を目指す。のちに藤原姓を名乗り、藤原氏の開祖となる。国立国会図書館蔵

 父は舒明(じょめい)天皇、母は皇極(こうぎょく)天皇という、これ以上ないというべき血統を受け継いだのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)であった。

 

 妹が間人皇女(はしひとのひめみこ/孝徳天皇の皇后)、弟は大海人皇子(おおあまのおうじ/天武天皇)という以外、幼少の頃の動向が記されることはなかった。それが、乙巳(いっし)の変の直前になって突如、表舞台に登場。中臣鎌子(なかとみのかまこ)こと鎌足(かまたり)に促されて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れるという役割を担ったばかりか、三韓の調の儀が催された大極殿(だいごくでん)において、自ら入鹿(いるか)に斬りつけるという華々しい活躍ぶりであった。

 

 入鹿や蝦夷(えみし)を死に至らしめて蘇我氏本宗家(ほんそうけ)を滅ぼした後、皇極天皇の同母弟である軽皇子(かるのみこ)を孝徳天皇として即位させたのも、鎌足及び中大兄皇子の計によるものであった。自ら宮中を血で汚した身としては、ほとぼりが冷めるまで、しばし孝徳天皇を傀儡(かいらい)としておく方が得策と判断したのだろう。

 

 その後、改新の詔(みことのり)を発して、大豪族との妥協を強いられることのない中央集権体制を目指したようである。ただし、血生臭い所業(しょぎょう)はあいも変わらず続いた。異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)に謀反(むほん)の疑いをかけて処刑したのをはじめ、自ら自陣に取り込んだはずの石川麻呂を自害に追い込み、傀儡としたはずの孝徳天皇まで、難波(なんば)の宮に置き去りにした。さらに孝徳天皇の子・有間皇子(ありまのみこ)まで謀反の疑いありとして処刑してしまったのだ。

 

 その皇太子の大きな転換点となったのが、663年のことであった。百済(くだら)復興を目論んで白村江(はくすきのえ)の戦いに挑むも大敗を喫したことが、痛手となったのである。唐と新羅(しらぎ)の連合軍が押し寄せてくるとの危機感から、筑紫(つくし)に大堤を築いて水を蓄えた他、各地に山城を築き、烽火(のろし)や防人(さきもり)といった国土防衛のための施設や制度まで整備せざるを得なかったのだ。

 

 さらに、民衆からの批判の声をも振り切って、都を近江大津宮へ遷都(せんと)。交通の要衝で、いつでも避難できるとの思いがあったのかもしれない。その上でようやく即位して、天智天皇となったのだ。長く称制(しょうせい)を続けていたのも、自らの血塗られた所業ばかりか、敗戦の痛手が大きかったことも影響していたに違いない。

 

 晩年には、自らの子である大友皇子(おおとものおうじ)に跡を継がせたいとの思いが募って太政大臣に任じるなど、様々な策を講じて自らの意思を貫いている。病の床についてからも、弟を呼んで「後事をお前に任せたい」と述べながら、その実、弟に野心があるかどうかを確かめるほどの細心さであった。この数々の策略が、結果として彼の死後、弟と甥による壬申の乱を巻き起こしてしまったというのは、皮肉としか言いようがない。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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