仏法伝来をめぐる蘇我氏と物部氏の抗争
山背大兄王を滅ぼすに至った背景と蘇我氏の立ち位置

山背大兄王の宮を襲撃する蘇我入鹿の軍勢
『太子伝記』に描かれた、山背大兄王の宮を襲う蘇我入鹿軍の様子。山背大兄王は一度館から脱出した後、館へ戻り自害。国立国会図書館所蔵
皇極(こうぎょく)2年(643)11月、蘇我入鹿(そがのいるか)は厩戸皇子(うまやとのみこ)の後継者・山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を斑鳩宮(いかるがのみや)で襲い、一族ともども滅ぼすに至った。『日本書紀』によれば、それは大王(おおきみ)家の簒奪(さんだつ)を企てていた入鹿がその第一歩として山背大兄の殺害に及んだものとされている。
しかし、当時大王家と蘇我氏が直接対立関係にあったとは考えられない。むしろ大王家内部の確執、すなわち王位・王権を巡る敏達(びだつ)天皇の系統(敏達統)と用明(ようめい)天皇の系統(用明統)の対立・抗争こそが権力闘争の焦点であった。すなわち入鹿は、敏達統のリーダー的存在であった皇極(こうぎょく)天皇(女帝)の命令を受けて、用明統の山背大兄を一族ともども滅ぼしたにすぎない。皇極はこれにより入鹿の敏達統に対する忠誠心とその力量を見定めようとしたのであろう。
事件後、蘇我氏の後援する古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ/舒明(じょめい)天皇皇子。母は蘇我法提郎媛/そがのほほてのいらつめ)が次期大王に推戴されることになったが、用明統という強力なライバルを失った敏達統は、これ以後熾烈な内部抗争の段階に突入していくことになる。古人大兄の即位を認めまいとする皇極の弟・軽皇子(かるのみこ/後の孝徳天皇)とその甥の中大兄皇子(なかのおおえのみこ/後の天智天皇)が急速に結びつくことになるのである。
物部氏との抗争の顛末と蘇我氏が行った国政の真実
6世紀半ば頃、欽明(きんめい)天皇の時代に百済(くだら)から仏法が伝来し、その受容を巡って開明的な蘇我氏と保守的な物部(もののべ)氏や中臣(なかとみ)氏が対立・抗争を繰り広げることになったと言われている。欽明天皇も仏法への帰依を宣言するまでには至らず、それを大臣(おおまえつきみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)に授けるにとどまったとされる。しかし、仏法は百済王権から倭(やまと)王権に公式に贈与されたもので、倭王権としては受容を拒否することはできなかったはずである。物部氏や中臣氏も仏法を受け容れる立場にあったと見られる。
それでも仏法伝来を機に蘇我氏と物部氏との間に確執が生じたことは間違いない。当時仏法は蕃神(ばんしん/外来の神)の祭祀(さいし)と見なされていたから、朝廷内で誰がその主たる管理を任されるかを巡り、政治的闘争が発生したものと考えられる。
すなわち欽明天皇は朝廷を取り仕切る稲目と蘇我氏に蕃神祭祀を委ねたのだが、朝廷内で元来祭祀を管掌してきた物部氏や中臣氏としては、自分達の職権を奪われたとして蘇我氏に敵愾心(てきがいしん)を抱くことになったのであろう。さらに仏法には外来の文化・技術という多大な利権も付随したから、それを蘇我氏に独占されたことに対する嫉妬も物部氏などのなかに生じたことも軽視できない。
その後、馬子(うまこ)の代を経て、舒明(じょめい)天皇・皇極(こうぎょく)天皇を相次いで擁立した大臣・蘇我蝦夷(そがのえみし)は朝廷内で圧倒的な権力を誇り、時の大王家を乗っ取るほどの勢いがあったと『日本書紀』には描かれている。例えば蘇我氏がその血脈に連なると自称していた葛城(かづらき)氏の勢力圏にある葛城の高宮に祖廟(祖先を祭る施設)を営み、中国では天子にのみ許される群舞、八佾(やつら)の舞(8×8で64人による舞い)を催したという。また今来(いまき)に蝦夷・入鹿(いるか)父子の墳墓を並べて造営させた際には、国中の民を大動員したと言われる。
この時造られた蝦夷の墓が近年発見されて話題となった明日香村の小山田古墳(こやまだこふん)ではないかとされている。さらに大王の飛鳥の王宮を眼下に見下ろす甘橿岡(あまかしのおか)に邸宅を築かせたという。これらは蘇我氏が大王家の簒奪(さんだつ)を企てていたという筋書きをもっともらしくするために潤色(じゅんしょく)が加えられた記事ではないかと思われる。これらの記事はもともと蘇我氏が大王家に准ずる特別な位置にあることを可視的に示すことを許されていたという内容だったと見られる。それを蘇我氏が大王家に取って代わろうとしたという記事に仕立て上げようとしたのである。蘇我氏の専横政治と言われるものは、蘇我氏本家滅亡の正当化のために造作されたものと言えよう。