蘇我氏の出自の謎 ~ベールに包まれた血脈の正体~
蘇我氏・葛城氏の勢力基盤と渡来人集団の結集が権力の源

蘇我稲目の墓と伝わる都塚古墳(みやこづかこふん)
6世紀後半の方形墳で、一説では蘇我稲目の墓であると言われている。別名は「金鳥塚」。一辺約42メートルあり、盛り土は全6段以上の石段に覆われていた。玄室内には二上山の凝灰岩で造られた家形石棺が安置され、柵越しに見学することも可能。
蘇我氏は大和国高市(たけち)郡曾我(そが)を本拠とする豪族であったが、葛城一帯を基盤とした同祖同族の葛城(かづらき)氏の血脈を受け継いで豪族として自立した。それは蘇我氏の初代・稲目(いなめ)が葛城氏の女性を妻に迎え、馬子(うまこ)という後継者をもうけたことに始まる。馬子は葛城氏と蘇我氏をともに継承するという絶大な地位と権力を生まれながらに手にしていたわけである。
その蘇我氏が朝鮮半島の百済(くだら)から渡来したのではないかという仮説がある。それは蘇我氏の祖先系譜において蘇我石川宿祢(そがのいしかわのすくね)に続く3代の名前が満智(まち)・韓子(からこ)・高麗(こま)といずれも朝鮮三国に関わり深いものであったことに由来する。高麗の子が稲目とされている。だが、満智に始まる3代はあくまで系譜上付け加えられた架空の人物と考えられ、蘇我氏が実際に朝鮮半島から渡来したことを意味するものではない。稲目以前の系譜は他の豪族と共有されるものであったことから考えて、蘇我氏が朝鮮三国や半島出身者と職掌(しきしょう)上深い関わりをもった事実が反映されているのが、この3代と見なすのが妥当である。
特に蘇我石川宿祢から高麗までの4代の系譜は、河内国石川地域を本拠とした蘇我倉(そがのくら)氏(後の石川氏)が作り出した祖先系譜と考えられよう。
また、蘇我氏権力が強大化することになった要因は、外来の文化・技術をもたらした渡来人集団を支配下に置いていたことによる。例えば稲目は、欽明(きんめい)天皇の命により吉備(きび)に派遣されて白猪屯倉(しらいのみやけ)や児嶋屯倉(こじまのみやけ)などの設置・管理にあたったとされている。屯倉とは地方支配の拠点となる公共建物のことである。稲目の配下には王辰爾(おうしんに)の一族など大勢の渡来系書記官がおり、屯倉の設置・維持に関わる文書の作成・管理などに関与したはずである。
稲目と蘇我氏はこのような各地への屯倉の設定を通じて、地方豪族との関係を深めていき、他の豪族に比べて地域利権の吸収を有利に進めることができたと見られる。
蘇我氏と渡来人集団との接点は、蘇我氏が葛城氏から血脈と利権を継承して成立したことにより、葛城氏がその支配下の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の四邑(むら)に強制連行した渡来人をそのまま受け継いだことに始まる。さらに稲目の時代に百済から公式に伝来した仏法の管理を稲目と蘇我氏が王権から委任されたことにより、仏法に付随して伝来した外来の文化・技術をもその管理下に置くことになり、ひいては渡来人集団全体が蘇我氏の管理下に入ることになったのである。