聖徳太子の斑鳩遷居にまつわる謎
新天皇が即位したときの聖徳太子の年齢は?

斑鳩宮の跡とされる法隆寺夢殿
奈良時代建立の八角円堂。内部には聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されている。国宝。
推古36年(628)、推古天皇は崩御した。その6年前に斑鳩宮(いかるがのみや)で聖徳太子は没している。そのため、聖徳太子は即位することはなかった。
では、聖徳太子にはそれ以前に即位の可能性はあったのだろうか。6世紀中ごろの欽明(きんめい)天皇以降の歴代の天皇は、敏達(びだつ)天皇→用明(ようめい)天皇→崇峻(すしゅん)天皇→推古天皇となる。これらの天皇はいずれも欽明天皇の子供たちである。
敏達3年(574)に誕生した聖徳太子は、崇峻天皇が即位した用明2年(587)には14歳だった。聖徳太子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、共に欽明天皇の子供である。したがって、聖徳太子の即位の可能性はあったといえるが、年齢的にまだ若いとされたのかもしれない。
崇峻天皇が暗殺された後、崇峻5年(592)に推古天皇が即位する。このとき聖徳太子は19歳だったが、天皇暗殺という非常事態下で、最高権力者だった蘇我馬子(そがのうまこ)の支持を受けた推古天皇が即位することになった。
聖徳太子は、推古朝で皇太子・摂政についたといわれており、推古天皇の後継者的な立場にあったと考えることも可能である。その点からいうと、条件が合えば推古天皇のあと即位がかなったかもしれない。
水上と陸上の交通の要地だった斑鳩
聖徳太子ゆかりの寺院といえば法隆寺、法隆寺といえば斑鳩というくらい聖徳太子と斑鳩の関係は深い。聖徳太子が斑鳩宮を造ったのは推古9年、28歳のとき。それまでの上宮からここに移り住んだのは推古13年、聖徳太子32歳のときのことで、以後の後半生をここで過ごした。
斑鳩は、都があった飛鳥から北西20㎞ばかりのところにある。聖徳太子がここを居所に定めた理由については諸説がみられる。中には、蘇我馬子との政争に敗れ斑鳩に移ったとか、政治の世界から逃れて仏教に専念するために斑鳩に隠遁したなど、少し後ろ向きとも思える説もある。
聖徳太子が斑鳩を造った理由は何だったのだろうか。1つではないであろうが、斑鳩の地勢が大きいのではないかと思われる。斑鳩は水上交通の要地に位置している。すなわち、難波(なにわ)から飛鳥を目指す場合、大和川をさかのぼって斑鳩の南を通り、さらに飛鳥川や大和川の上流の初瀬川をさかのぼって飛鳥に上陸することになる。したがって、難波から物資などが運ばれる際に斑鳩は重要な拠点であり、聖徳太子はこのことを計算にいれて斑鳩宮を造営したのではなかろうか。
陸路を考えると斑鳩から飛鳥までは、馬をゆっくり走らせて片道2時間ほどといわれている。
水上交通と陸上交通の両方からみて、斑鳩は地の利を得た場所といえるであろう。
当時、最大の実力者だった蘇我馬子と聖徳太子の関係
推古朝は、推古天皇と聖徳太子・蘇我馬子とによるトロイカ体制であったが、やはり、何といっても最大の実力者は蘇我馬子であったと考えられる。そこに聖徳太子がどのような役割を果たしたかについては明確にはされていないが、否定的な意見もみられる。
推古朝の主要な政策をみると、
・推古8年 遣隋使の派遣(第1回)
・同11年 冠位十二階の制定
・同12年 憲法十七条の制定
・同15年 遣隋使の派遣(第2回)
・同28年 『天皇記』・『国記』編纂
というように、多くは推古15年までに偏っている。
これらと推古30年の聖徳太子の死去をかみ合わせると、聖徳太子は、初めは諸政策に力を尽したもののことごとく蘇我馬子にあしらわれて、思うようにうまくいかず、晩年は失意のうちに亡くなったというのである。しかし、聖徳太子は母方を通じて蘇我氏と血縁をもち、妻の刀自古郎女(とじこのいらつめ)は蘇我馬子の娘であることから、激しい対立は考えにくいのではなかろうか。