謎に包まれた聖徳太子の死と超人伝説の始まり
母が亡くなった翌年、妃と聖徳太子が病にかかる

直径約55m、高さ約7mの円墳である叡福寺聖徳太子御廟。内部は横穴式石室。聖徳太子と母である穴穂部間人皇女、太子の妃のひとり・膳部大郎女の棺が納められている。
『日本書紀』によると、聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)で没したとき、人々は大いに悲しみ、太陽と月は光を失い、天地は崩れ、これから先、誰を頼りにすればよいのだろう、といったという。
また、聖徳太子の師であった慧慈(えじ)は母国の高句麗(こうくり)に帰っていたが、聖徳太子の死を聞いてもう生きていても仕方ないと嘆き、来年の聖徳太子の命日に必ず死ぬと誓って、その通りに亡くなったという。
このように万民に慕われた聖徳太子であるが、死因は何であったかというと不明としか答えようがない。ただ、法隆寺の釈迦三尊像光背銘(しゃかさんぞんぞうこうはいめい)によると、推古29年(621)12月に聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなり、翌推古30年正月22日に聖徳太子が病にかかり、次いで妃の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)も倒れたという。そして、2月21日に妃が没し、翌日に聖徳太子も亡くなったとされる。
このように、聖徳太子、母、妃と相次いで病にかかり、亡くなっているところから伝染病によるものではなかったかともいわれている。
誕生のきっかけまでも伝説化された聖徳太子
聖徳太子には多くの伝説があり、それは、没後およそ100年に成立した『日本書紀』にその伝説化がみられる。さらに、平安時代中期にまとめられた『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』によって、決定的となった。
その一端をみるならば、誕生のきっかけとして母の穴穂部皇女が、夢に金色の僧をみたという。この僧は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)の化身で、皇女の口に飛び込み、これによって皇女は妊娠。厩のそばで聖徳太子を産むのである。
聖徳太子は誕生後、すぐに言葉を発し、2歳のとき釈迦の命日(2月15日)に東方に向かい「南無仏(なむぶつ)」と称えて再拝した。5歳のとき毎日数千字を習得し、6歳から経典を読み始め、自ら中国衡山(こうざん)の慧思禅師(えしぜんじ)の生まれ変わりであると語った。7歳にして経論数100巻を読了し、11歳のとき36人がいっぺんにものを言ったのを聞きわけた。
推古5年に百済(くだら)の皇子の阿佐(あさ)が来朝し、聖徳太子を菩薩として礼拝。翌年、甲斐国から献上された黒駒という名馬で空を飛び、富士山から越の国を回って戻った。推古12年には、太秦(うずまさ)に250年後に寺が造られ、300年後に都が造られると予言。
推古21年には片岡山で飢人に会い衣服や食料を与え、死後に墓を造ったが、その後、墓を開くと何もなかった。飢人は実は聖人で、聖徳太子はそれを見抜いていたという。こうした伝説が中世以降も広がり、聖徳太子は信仰の対象となっていくのである。