御家人への配慮から生まれ、義経の追跡で恒久化した「守護」「地頭」
「歴史人」こぼれ話・第13回
国地頭の派遣に始まり義経惣追捕使として役割が拡大
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兄から追捕され守護地頭恒久設置の理由とされた源義経『前賢故実』/ 国立国会図書館蔵
軍才という点においては、木曽義仲(きそよしなか)や源義経に今一歩及ばなかった源頼朝。それにもかかわらず、彼が天下を征することができたのは、何よりも政治力に秀でていたからというべきだろう。義仲や義経が実行部隊として平氏討伐に奮闘。最後の段階で、手のひらを返して朝敵(ちょうてき)に仕立て上げ、両名が成し遂げ得た成果をそっくり頂いたことにも表れている。その能力は、後白河法皇との交渉でも、存分に発揮された。「朝廷の支配から抜け出して幕府の権力を強める」ためにも、必要なことだったからである。
その第一歩というべき方策が、守護地頭の設置である。全国に、頼朝の息のかかった御家人を配置して全国を統治。頼朝支配の下支えである御家人たちが着実に収入を得られるような仕組みを作るという、頼朝にとって実に都合の良い方策であった。
ただし、これは朝廷から支配権を奪うことになるため、恒常的な設置を申し出ても反対されるだけであった。ここで生かされたのが、頼朝ならではの交渉術である。
朝敵として逃げた義経追討理由から、終了後は恒久的な制度へ
弟の義経が朝敵として逃げ延びたことを利用。表向きはその探索を目的とした一時的な惣追捕使(そうついぶし)としての任務であることを強調して、その派遣を認めさせたのだ。
『吾妻鏡』では、文治元(1185)年に守護地頭がセットで派遣されたかのように記されているが、その前段階として、惣追捕使としての役割を課せられた国地頭の派遣が先に行われていたと見るべきだろう。惣追捕使となれば、義経追討を命じた後白河法皇としても無下に反対することはできなかった。千人もの兵を従えて交渉にやってきた北条時政の威圧的な態度も功を奏したことは言うまでもない。文治5(1189)年に義経が成敗された後は本来なら役目を終えるべきであるが、さらなる謀反人の発生が横行すると朝廷側にゴリ押し。
建久2(1191)年、恒久的な制度としてその存続を認めさせることに成功したのである。平時に相応しい「守護」という名に改めたのも、また、国ごとに置かれた守護と荘園や国衙ごとに置かれた「地頭」が区分されたのも、この時のことであった。