僧侶に仕える者たちの「名字」
「歴史人」こぼれ話・第8回
僧侶にはなく、仕える者だけが名字を持っていた
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興福寺衆徒がのちに大和武士として成長、代表的存在となった『筒井順慶』/都立中央図書館蔵
基本的に僧侶は名字を持たないが、僧侶に仕える者は名字を持っていた。ここでは、本願寺の坊官だった下間(しもつま)氏などを取り上げることにしよう。
下間氏の先祖をたどると、摂津源氏の源頼政(1104~80)にたどり着くという。下間氏の祖・源宗重(みなもとのむねしげ)は、頼政の玄孫であるといわれている。
宗重は、常陸国下妻(茨城県下妻市)の出身だった。やがて宗重は、出家して蓮位坊と号し、浄土真宗の開祖・親鸞(1173~1262)に従った。
親鸞が東国で伝道をした際、常陸国下妻に庵(小島草庵跡)を構えた。下妻は宗重の出身地でもあることから、これにちなんで宗重は「下妻」を姓とし、のちに「下妻」が「下間」に変化したと伝わる。
その後、下間氏は御堂衆(御堂の勤行を担当)、鎰取役(かぎとりやく。御影堂の鍵の開閉)を担当するなど、教団の中で重要な役割を担うようになった。
やがて、下間氏の一族でも役割を分担するようになり、本家の嫡子が事務を執り行い、一族庶子は殿原衆(侍衆)の役割を担った。
こうして後者が本願寺の坊官となったのである。坊官とは、寺院などで事務を担当した在俗の僧侶のことである。帯刀や肉食妻帯を許可されたが、見た目は剃髪して法衣を着ているので、僧侶そのものだった。
下間氏は、本願寺の坊官として法主を支えた。特に、元亀元年(1570)から本願寺顕如(けんにょ 1543~93)が織田信長(1534~82)と戦った際、軍事面で重要な役割を担ったのが下間頼廉(らいれん)である。下間氏は、「頼」を通字としていた。
変わり種としては、大和の筒井氏が有名である。もともと筒井氏は、大和国添下郡筒井(奈良県大和郡山市)の土豪だった。この「筒井」が名字の地である。
鎌倉時代以降、筒井氏は大和に強大な影響を持つ興福寺の衆徒になった。衆徒とは僧兵のことであり、興福寺は彼らを組織していたのだ。
室町時代以降、筒井氏は徐々に大和国内で台頭し、強い存在感を示すようになった。その中興の祖が筒井順永(じゅんえい 1419~76)である。以後、家督は順尊(じゅんそん)、順賢(じゅんけん)、順昭(じゅんしょう)、順慶(じゅんけい)と引き継がれ、「順」の字を通字としたのである。