「神」になろうとした信長の宗教政策
「歴史人」こぼれ話・第7回
信長の偏った宗門政策の実態と意図
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信長は法華宗と浄土宗の宗論では法華宗を負けとした。『絵本太閤記』/上田市上田図書館花月文庫蔵
信長の宗教政策には、極めて残忍なものもみられたが、そこには信長らしい実利的な意図と夢想があった。天台宗の比叡山全山を焼き討ちして3000人余を惨殺したのは、延暦寺の僧兵を排除して、その寺領を支配するためである。
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信長軍が駆け上がったであろう比叡山延暦寺の登山道
安土宗論(あづちしゅうろん)といわれる、浄土宗と法華宗(日蓮宗)との論争を勝手に設定して、一方的に法華宗を負けとしたのは、京都の町衆の多くが法華宗の信者であったからだ。町衆から黄金2600枚を献上させて、京都の宗教と経済を支配することに成功している。
真言宗では、和泉の槙尾寺(まきのおでら)が検地に応じなかったとして焼き討ちにし、諸国を遊行する高野聖数百人を惨殺して、高野山の寺領と僧兵の動きを封じている。
一向宗(浄土真宗)の石山本願寺を攻撃し続けたのは、本願寺が持っている生産力と流通力を掌握するためであり、その寺地(後の大坂城)が欲しかったからである。信長は、門徒がいる伊勢長島で2万人を殺し、越前では1万2000人を虐殺している。
信長は宗教勢力を否定して一掃を図ったが、その代わりに求めたのが、キリスト教の信仰構造であった。信長は自身を天主(デウス)として、「自らが神体であり、生きた神仏である」と宣言する。信長を信じて拝めば、万人が幸福になれる、と安土城下にある摠見寺(そうけんじ)に祀られた信長の神体(ボンサンという石)に参拝することを強要した。ボンサンの周囲には、多数の仏像が集められていた。信長の神体を仏像に拝ませるためである(ルイス・フロイス)。
信長は日本の神仏を否定することで、自らを「神」として日本は勿論、世界に君臨することを望んだのである。これに危惧を抱いたのが朝廷であり、明智光秀であった。
死後、信長は「神」として祀られることはなかったが、豊臣秀吉と徳川家康は「明神」「権現」と諡号(しごう)が贈られて神仏として祀られたから、信長の「神」志向は多少の影響があったのかもしれない。
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江戸時代に再建された比叡山延暦寺「にない堂」渡廊下