魔王・信長の実像 ─兄弟・家臣たちとの狭間で苦悩─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅③
時代を超えた天才的な発想力と圧倒的な存在感、途方もない野望も持ち戦国の世を統一した織田信長。覇者となり、歴史に燦々たる名を刻んだ信長にも苦悩し、もがいた時期があった……。

若き日の織田信長像岐阜公園に飾られている、若い頃の信長像。着くずした着物や振り乱した長髪が「うつけ者」らしからぬ荒々しさを感じさせる。
■父・信秀の跡を継いだ大うつけ! 反発する家臣らが弟を擁立
織田信長の父・信秀(のぶひで)は、もともとは勝幡城(しょばたじょう)を居城としており、津島湊(つしまみなと)を支配下において経済力を蓄えていた。その後、那古野(なごや)城を奪取すると、この那古野城を子の信長に与え、自らは古渡(ふるわたり)城を築き、移っている。その後、信秀は熱田に近い末森(末盛)城を居城としているが、これは今川義元(いまがわよしもと)に対する備えであるとともに、熱田(あつた)湊を押さえる目的があった。

『尾張名所図会』の熱田潟熱田潟、熱田の海、尾張の海とも言われた。江戸時代には、新田開発が進み、今の名古屋の礎を築く。国立国会図書館蔵
このように、織田氏の経済力を飛躍的に高めた信秀であったが、後継者をはっきりさせないまま、天文21年(1552)に急死してしまう。死因は流行病であったともいうが、はっきりしたことはわからない。信秀の葬儀は、菩提寺である万松寺(ばんしょうじ)で執り行われたが、このときの様子は、『信長公記(しんちょうこうき)』にこう記されている。
信長御焼香に御出、其時信長公御仕立、長つかの大刀・わきざしを三五(みご)なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り。御舎弟勘十郎(信勝)は折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり。三郎信長公を例の大うつけよと執々(とりどり)評判候なり

信長の父・織田信秀像尾張統一の礎を築き、織田家躍進へと導いた信秀。斎藤道三、今川義元にも決して屈することはなかった。亀岳林万松寺蔵
着崩した格好で信秀の仏前に抹香を投げかけた信長に対し、弟の信勝(のぶかつ)は正装で参列していたという。信長は、家督を決めないまま他界した父に不満をもっていた可能性はある。
戦国時代では、嫡男だからといって家督を継ぐことができるとは限らなかった。武将としての才覚がなければ、家を滅ぼしてしまうからである。それは家臣の認識としても同じだった。信長の同母弟である信勝も、家督を継ぐ資格は十分にあったのである。しかも、信勝は信秀の居城であった末森城を引き継いでおり、信長は信勝を家督として擁立しようとする家臣に追い込まれていった。

那古野城跡信長が城主となった城であり、織田家の居城。のちに徳川家康が築城した名古屋城の敷地内に跡地が残る。