桶狭間の戦い攻略の真相 ─天下人への道が開けた信長の手腕─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅②
戦国史最大の逆転劇「桶狭間の戦い」。海道一の弓取り・今川義元の大軍を尾張の大うつけ・信長はいかにして打ち破ったのか? その真相に迫る!

桶狭間古戦場公園と園内に立つ織田信長と今川義元の像
■尾張制圧に出陣した今川軍。織田側の拠点が次々に陥落…
永禄3年(1560)5月10日に今川軍の先鋒が駿府(すんぷ)を出陣すると、2日後の5月12日には、今川義元率いる本隊も出陣して尾張に向かった。尾張出兵の目的は上洛にあったとも言われるが、喫緊の課題は、織田信長に包囲されている大高(おおだか)城と鳴海(なるみ)城を解放することである。

大高城跡尾張侵攻のため、今川が手中に収めていた城。桶狭間時点では松平元康が着陣していた。
当時、今川氏の勢力は尾張の知多(ちた)郡から愛知郡にまで及んでおり、知多郡北端の大高城と愛知郡南端の鳴海城は今川方になっていた。愛知郡と知多郡から今川方の勢力を排除するため、信長は大高城に対して丸根(まるね)砦・鷲津(わしづ)砦を、鳴海城に対しては丹下(たんげ)砦・善照寺(ぜんしょうじ)砦・中嶋(なかじま)砦を付城(つけじろ)として築き、包囲していたのである。

丸根砦跡桶狭間前哨戦にて、松平元康によって制圧された織田軍の要害。佐久間盛重が守った。

鷲津砦跡丸根砦とともに今川侵攻に備え、築かれた。大高城・丸根砦とともに国の史跡に指定。
5月18日に沓掛(くつかけ)城に入った義元は、その夜、先鋒の松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを命じていた。そして、兵糧入れを成功させた元康は、日付が変わった翌19日の未明、丸根砦への攻撃を開始した。今川軍がこの時間に攻め始めたのは、大高城のすぐ下を通る「下の道」が満潮によって水没し、織田方の援軍が急行できないことを見越していたためである。丸根砦を守っていたのは信長の家臣・佐久間盛重(さくまもりしげ)率いる400ほどの兵で、元康率いる松平勢が2500ほどの兵で攻撃したという。また、同じ頃、重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)率いる2000ほどの軍勢が鷲津砦を攻撃した。