桶狭間の戦い攻略の真相 ─天下人への道が開けた信長の手腕─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅②
■「迂回奇襲」でも「正面攻撃」でもない!? 桶狭間で信長が採ったルート
~いまだ謎が多い!? 信長の進軍ルート~

桶狭間合戦を描いた錦絵明治時代の絵師・周延が桶狭間の戦いの様子を描いた錦絵。鎧姿で刀を振りかざしている人物が今川義元。両脇に毛利新助や服部小平太が描かれ、当日が豪雨であったことも表現されている。「桶狭間合戦之図」/古美術もりみや
丸根砦・鷲津砦が今川軍に攻撃され始めたという報告を居城の清洲(きよす)城で受けた信長は、準備を整えさせたうえで出陣の儀式を行う。幸若舞(こうわかまい)の『敦盛(あつもり)』の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」を舞ったのは、このときのことである。
その後、信長は単騎で出陣しているが、付き従ったのは小姓のみであったという。籠城をすすめる家臣に諫言(かんげん)の隙を与えないようにしたためであるらしい。実際、義元が清洲城に攻め寄せた場合、籠城しても信長に勝算はほとんどなかった。

中嶋砦跡信長が今川方に寝返った鳴海城を警戒するため、丹下砦・善照寺砦とともに築いた砦。
信長は午前8時ころ、清洲から12㎞ほど南に位置する熱田社(あつたしゃ)に着く。この熱田社で戦勝祈願をしているうちに、軍勢は1000ほどになっていた。織田軍は、熱田社からさらに東へ進軍するが、ちょうどそのとき、丸根砦・鷲津砦の方向に煙があがっているのが見えたという。これは、松平元康や朝比奈泰朝ら今川軍の先鋒によって、両砦が陥落したことを意味していた。そのため、大高城が解放されたことにより、今川軍の先鋒が、さらに鳴海城へ進軍してくることも想定されたのである。

信長が戦勝祈願した熱田神宮信長が桶狭間の戦い前に祈願、勝利後に塀を寄進し、現在も深い信仰を受けるパワースポット。
名古屋市熱田区神宮1-1-1
信長は海岸沿いから鳴海方面に向かうつもりでいたが、満潮のため、近道である「下の道」を通ることができない。そのため、内陸の「上の道」を進んで丹下砦に入った。さらに、丹下砦を出立した信長の軍勢は、善照寺砦に入っているが、このころには軍勢の総数も3000ほどになっていたという。
このあと、信長の軍勢は義元の本陣へと向かうわけであるが、信長がどのような経路を通ったのかについてはよくわかっていない。小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記(しんちょうき) 』には、「信長卿、すは首途(かどで)はよきぞ、敵勢の後の山に至て推廻(おしまわ)すべし」と書かれている。今川軍の背後の山に迂回して本陣に接近したというのだが、詳しい進軍経路については明らかでない。これに対し、江戸時代の軍記物語『桶狭間合戦記』になると、「信長、太子ヶ根より急に田楽狭間へ取り掛り」というように、太子ヶ根に迂回し、本陣に向かったということになっている。
太子ヶ根は、名鉄有松駅の東南500mほどに位置する場所であり、現在では大将ヶ根という地名になっている。信長が陣をおいたことから、太子ヶ根が大将ヶ根とよばれるようになったという。こうした記述などから、信長の進軍経路は、これまで太子ヶ根を迂回して本陣に向かったと考えられてきた。
ただ、信長の側近として活躍していた太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』には、太子ヶ根を迂回したとは記されていない。『信長公記』の記述では、次のようになっている。

釜ヶ谷信長が今川本陣への突撃の機会を待っていた場所。現在は駐車場となっているが、周辺が傾斜地帯となっており、当時のなごりをうかがわせる。
写真提供/桶狭間古戦場保存会