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石山本願寺攻め1570〜80年<その3>~石山戦争直後、信玄、浅井・朝倉らと成した「信長包囲網」

戦国武将の城攻め【解体新書】#007

毛利氏勢力からの補給支援と雑賀衆の火力

毛利輝元肖像 

毛利輝元肖像 東京大学史料編纂所肖像模写

 本願寺のある上町台地は、敵対する織田・毛利双方にとって、重大な戦略要地だった。

 

 信長は淀川口を扼する本願寺を奪い、西国計略の拠点にしようとしていた。

 

 一方の毛利氏も、京都の織田軍と対決するための拠点として、本願寺は絶対に確保しておかねばならない要地である。

 

 こうしたことから本願寺の去就は注目されたが、本願寺は幾度かの和睦から、信長にひれ伏したところで、身ぐるみはがされて追い出されることを学び、毛利方として挙兵することにした。

 

 それでは本願寺の勝算は、どこにあったのか。

 

 まず毛利氏勢力からの支援である。さらに雑賀衆の入城により、火力が大幅に補強されたことで自信を持った。そして、この頃から強化されていったはずの本願寺自体の防御力である。

 

 話は戻るが、信長は、毛利勢が大挙して押し寄せる前に、是が非でも本願寺を手に入れておきたい。少なくとも本願寺を包囲し、毛利勢との連携を断つことで干し殺しにしたいと考えていたのではないだろうか。

 

 それゆえ、この頃の織田家中で、明智光秀や羽柴秀吉を凌ぐ出世頭の塙直政に攻略を託した。

 

 直政らには本願寺を取り巻く砦群を掃討し、本願寺を孤立させることが命じられていた。というのも本願寺そのものは38メートルの台地上にあるため、毛利方の水軍が兵糧を運んできても、直接は船を寄せることができない。必然的に港となり得る場所に砦を築く必要がある。それがこれらの砦群なのである。

 

 直政は信長の方針に従い、最も利便性の高い三津寺砦の攻略を目指すが、おそらく雑賀勢とおぼしき本願寺の鉄砲隊は、この動きを読み、ほど近い楼岸砦に潜んでいたのであろう。

 

 塙勢が三津寺砦に掛かると同時に、その背後から迫った本願寺鉄砲隊は猛射を浴びせ、塙勢を壊滅に追い込む。

 

 これは、信長とて予想だにしなかったことである。

 

(続く)

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伊東 潤(いとう じゅん)
伊東 潤いとう じゅん

1960年生まれ。2012年『城を嚙ませた男』13年『国を蹴った男』で直木賞候補。『黒南風の海』で「本屋が選ぶ時代小説大賞2011」を受賞。著作に『叛鬼』『義烈千秋』『武田家滅亡』『戦国鬼譚 惨』など。利休の内面と死の真実挑んだ最新刊「茶聖」(幻冬舎)が2020年2月20日発売!

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