箕輪城攻め1566年<その4>~2万の大軍を擁しながら用意周到に詰めた信玄
戦国武将の城攻め【解体新書】#004
鷹留城を落とす一方主力の内藤隊、小幡隊は若田原から箕輪城に侵攻
最終的に長野氏は孤立し、力押しに押せば、箕輪城の攻略は容易だったかもしれない。
しかし、こうした圧倒的に優位な状況下にあっても、信玄は実に用心深かった。
信玄は、長野氏の本拠・箕輪城と、その第一の支城である鷹留城の間を分断し、双方共に孤立させるべく、その中間にあたる白岩に着陣した。
箕輪―鷹留間は防衛網の最終ラインである。この線を守ろうと出陣してきた長野勢と、武田勢は野戦を展開した。この戦いに勝った信玄は、長野勢を箕輪城に追い込むことに成功する。
さらに、北方から榛名山西方を回り込んで鷹留城を落とした真田勢と共に、箕輪城を南北から包囲攻撃した。
これには、さしもの長野勢もたまらず、箕輪城は落城し、長野氏は滅亡する。
信玄の城攻めは周到である。事前に敵地を探査させ、地形のみならず敵兵力や配置を完全に把握する。その上で確実に勝てる方法を考案し、それを慎重に実行に移す。
そうした希代の軍略家である信玄を前にして、長野氏側唯一の対抗手段が業政の求心力だった。しかし業政の死により、その切り札は失われ、形骸化された同盟と城郭網だけが残った。
そうなっては蛇ににらまれた蛙も同然であり、長野氏の滅亡は必然であったと言える。
この戦いで信玄は、「外交と調略による慎重な地固め」「各個撃破」「段階的計画」が、いかに城攻めには重要かを見事に証明して見せた。