箕輪城攻め1566年<その3>~小幡信貞を保護し大義として調略する信玄
戦国武将の城攻め【解体新書】#003
甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆以上の後詰体制をとった西上州
こぞって戦国大名化を図った他の武将たちと業政が異なるのは、自らの版図を拡大し、兵力や財力を強化することで身を守ろうとするのではなく、地縁血縁によって国人たちのつながりを強化することで、外敵の侵入を防ぐという方向を目指した点である。
これは甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆にも似た形態である。
元々、一揆という母体があったため、それも可能になったわけだが、業政は、それだけでは不十分と思ったのか、50余にも及ぶ城郭群を長野氏軍道と呼ばれる道で結んだ。この軍道は、箕輪城から10方面以上に放射状に広がっており、異変を察知すると、互いに後詰を出し合える態勢になっていた。
つまり名目だけの同盟ではなく、実質的にも相互連携した後詰体制を築いたのだ。
これは画期的なことで、例えば伊賀惣国一揆は、第二次天正伊賀の乱の折、信長の大軍に四方から侵入されることが分かっていても、有機的な防御態勢が布けず、国人たちは各個撃破されている。
軍道により具現化された攻守同盟は、実際に機能する以前に、同盟者の不安を取り除き、離反を防ぐという効果があったはずである。むろん信玄も、こうしたことをよく知っていた。
実際に信玄は弘治3年(1557)、上州への侵入を図ったものの、業政の下、堅固な防衛網を布く一揆方に苦戦し、瓶尻合戦という野戦に勝利したものの、撤退のやむなきに至っている。
こうしたことから信玄は、まず調略による切り崩しを図った。業政の死の前年(永禄3年)、小幡氏の内紛で弾き出された小幡憲重(後の信貞)を保護した信玄は、それを大義として永禄4年(1561)11月、上州侵攻を開始、一揆方の最南端に位置する国峰城を攻略した。
これを足掛かりにして、硬軟取り混ぜた調略により一揆方の切り崩しを図り、長野氏を孤立させた上で、一気に決戦に及んだわけである。
(続く)