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早世が惜しまれる、光秀・秀吉の歴史的ライバルたち

「歴史人」こぼれ話・第1回

生き残れば秀吉、光秀を凌ぎ、江戸時代には大名家になった男たち

中川清秀肖像/梅林寺蔵

■中川清秀――秀吉に有能さを見抜かれ、秀吉と兄弟の契りを結ぶ

 

 摂津衆の一人として荒木村重の麾下(きか)に属した。

 

 光秀との関係は希薄だが、天正10年の武田攻めでは信長の本陣付としてともに従軍した。帰陣後は、光秀とともに秀吉への援軍に出陣する予定だったが、本能寺の変によって、敵味方に分かれた。

 

 秀吉とは親密。

 

 秀吉は出世すると睨んだ相手には誼を通じておく抜け目なさがあるが、清秀にも近づいている。清秀は村重の謀叛に加担せず、信長に帰順したことで嫡男秀政に信長の息女をもらい受けた。信長の一門衆に列し、信長から中国で二か国の領地を宛行う朱印状も与えられている。

 

 秀吉は清秀に兄弟の契りを結び、さらに信長の女婿となった秀政に書状を送り、父清秀の武田攻めの出陣をねぎらっている。変後は、いち早く清秀とも連絡し、味方に付けることに成功している。

 

 その後、清秀は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦死。次男の秀成は豊後(ぶんご)岡藩初代藩主となっている。

「信長は生きていると誤情報で味方に誘った」清秀宛 秀吉梅林寺文書/梅林寺蔵

■原田直政――光秀や秀吉を上回る早さで出世していた武将  

 

 知名度は低いが、光秀や秀吉を上回る早さで出世した武将である。

 

 京都で光秀や秀吉とともに行政担当をした時期もあった。

 

 馬廻出身で塙正勝(直政)と名乗っていたが、天正3年7月、光秀が維任日向守、秀吉が筑前守を与えられた時、九州の名族といわれる原田名字と備中守を与えられた。

 

 すでに大和と山城(南山城)の守護に任じられており、出世頭といわれる光秀や秀吉を凌駕していた。このまま出世すれば、畿内を総攬する地位に就く可能性もあったが、天正4年5月、大坂本願寺攻めの総大将に抜擢されたもののあえなく討死。

 

 その後、直政の地位には重臣の佐久間信盛、信盛追放後は光秀が就いた。

 

 中国の毛利氏との折衝は主に秀吉が担当していたが、天正3年には直政も小早川隆景との音信を開始しており、秀吉に取って代わる可能性もあった。

 

 直政の突然の討死によって、結果的に光秀と秀吉の将来展望が拓けたともいえよう。

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和田裕弘わだ やすひろ

1962年奈良県生まれ。戦国史研究家、織豊期研究会会員。主な著書に『真説 本能寺の変』(共著/集英社)『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』『信長公記戦国覇者の一級史料』『織田信忠 天下人の嫡男』(すべて中公新書)など多数。

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