Ifの信長史 第3回~牙をむく明智軍!その時、信長は~
夜明け間近、1万強が本能寺の寝所を一挙に襲った
城郭なみの機能を備えた本能寺へ明智軍が迫る
信長は、京に逗留する際、本能寺を宿舎とすることが多かった。
本能寺は法華宗本門流の大本山で、中央に据えられた本堂もひときわ巨大で、子院塔頭は30あまりを数え、堂々たる境内を誇っている。信長が魅力を感じていたのは法華宗が種子島にも布教し、末寺を置いていたことで、鉄砲の入手と搬送を手堅く行えるという点にあったかもしれない。
いってみれば、本能寺は、象徴的にいえば京における織田家の弾薬庫であり、司令部のような役割も与えられていた。そうしたこともあって、当山はひときわ防禦に優れていた。信長の命を受けた京都所司代の村井貞勝が大々的に改修したためだが、寺域がそもそも広大で、東に面した四条西洞院大路を流れる水路から水を取り込んで濠を設け、高い土塀を巡らし、竹林で目隠しし、北と南の門には物見櫓を建てるなど、城としての機能を充分備えていた。
その巨刹の寝所で、今、すなわち天正10年(1582)6月1日、信長は眠りについている。
この頃、信長は、徳川家康と強固な同盟を維持しつつ、最大の懸念となっていた武田家を攻め滅ぼし、眼の上のたんこぶだった雑賀衆を紀州から追い出し、三好康長、大友宗麟、龍造寺隆信、伊達政宗などの恭順を受けたことにより、それまで包囲されていた立場から、逆に諸大名を追い詰めるまでに膨張している。
もはや、織田家の兵は手勢というより織田軍団という方がよく、諸方に置かれた大名なみの実力を備えた重臣どもは方面軍の司令官と呼ぶ方がふさわしい。 「万事、順調。懸念は、なにひとつとして無い」 そう、信長は直子に囁き、ひとり、厠に立った。ふと、人のざわめきを感じた。光秀の魁でも到着したのかとおもい、小姓から親衛隊の隊長ともいうべき立場となっている森蘭丸に「なにかあったのか」と質したところ、敵勢に包囲されているという返答だった。 「旗は、水色桔梗。明智光秀さまの軍勢にございまする」 「是非に及ばず」 信長は、直子に寺から逃げ出すよう告げるや、弓を手に取った。
(次回に続く)