桶狭間合戦への前哨戦 ─動乱が続いていた尾張と織田信長─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅①
信長が天下布武に向かって契機を掴んだのが「桶狭間の戦い」。だが、そこに至るまでには、前哨戦ともいえる多くの戦いがあった。織田家の内乱〜今川の攻勢など、当時の尾張事情を検証する。

織田信長
長興寺蔵/豊田市郷土資料館提供
織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれる。父から家督を継いだ後、尾張守護代だった織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼし、弟の信勝も排除して、尾張一国の支配を固めた。
■戦国の尾張という土地と守護・斯波氏家臣の織田家
尾張の守護は斯波(しば)氏だった。足利一門の斯波氏は、細川氏や畠山氏とともに管領(かんれい)に就くことができる「三管領」の家柄で、尾張だけでなく、越前・遠江(とおとうみ)の守護を兼ねていた。
越前を本国としていた斯波氏は、尾張に守護代として織田教広(のりひろ)[常松(じょうしょう)]を派遣した。この織田教広が、信長の先祖となる。ちなみに、織田氏は、もともとは越前の織田荘(おたのしょう)にある劔(つるぎ)神社の神官であったが、以来、織田氏は尾張守護代として発展していく。

【尾張守護・斯波家と信長の織田家】
信長生誕時は守護・斯波氏が無力化しており、信長の父・信秀は織田大和守の家老にすぎなかった。

尾張8郡の支配系統
岩倉城の織田伊勢守と清洲城・織田大和守が尾張を二分して支配するかたちになっていた。
応仁の乱で守護の斯波氏は、西軍に属した守護の斯波義廉(よしかど)と、東軍に属した一族の斯波義敏に分かれて争う。結局、乱後には斯波義敏(よしとし)の系統が守護を相承することになった。ただし、本国の越前は朝倉氏に奪われ、遠江も駿河の今川氏に侵略されたため、尾張へと下向したのである。
応仁の乱では、守護代の織田氏も東西に分かれており、斯波義廉を奉じる守護代の織田敏広と、斯波義敏を奉じる織田敏定が争っていた。この対立は乱後も続き、やがて尾張8郡のうち、織田敏広の系統が上四郡すなわち丹羽郡・葉栗(はぐり)郡・春日井郡・中島郡を管轄する守護代、織田敏定の系統が下四郡すなわち海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡を統括する守護代として君臨するようになる。
つまり、尾張では上四郡守護代と下四郡守護代という二人の守護代が並立するようになったわけである。上四郡守護代となった織田敏広の系統を、代々受領名を伊勢守と称したことから伊勢守系織田氏と呼び、下四郡守護代となった織田敏定の系統を、代々大和守と称したことから大和守系織田氏と呼ぶ。
もともと織田氏の宗家は伊勢守家のほうであったが、やがて、守護を奉じる大和守家の勢威が拡大した。