Ifの信長史 第6回~単騎、安土城を飛び出す信長~
1万の軍勢で安土城を取り囲む明智軍
1万の軍勢で安土城を取り囲む明智軍
ところが、状況が一変した。各方面軍に対して遣わした伝令が功を奏したもので、北陸にあった柴田勝家と四国に向かおうとしていた丹羽長秀と神戸信孝が相次いで安土に到着したのである。
勝家は持ち前の豪放な攻め方で光秀の攻城を阻止し、長秀は後詰めに立って光秀を追い詰め始めた。だが、光秀はさすがに戦巧者で、圧倒的に少ない兵馬ながらよく凌ぎ続けた。坂本から海賊衆を遣わして城の絡め手からも攻め、大船を炎上させるなど、徹底的に攻め、勝家も長秀も大きく後退した。戦は長期戦になりつつあったが、こうした状況を誰よりも嫌うのが信長だった。
「埒が明かぬ」
信長は、単騎、飛び出した。数えて49歳になる。しかも本能寺で負った左肩の矢傷は癒えていない。
ところがこの男は齢も傷もいっさい忘れ、桶狭間で今川義元を討ち果たしたときのように若やぎ、明智光秀の本陣めがけて突進した。
驚いたのは、双方の陣だけではない。越前から駈けつけてきた柴田勝家の陣も、光秀を追いかけてきた丹羽長秀の陣も、一様に驚いた。後になって、このときの信長の吶喊を「もののけに憑かれたようだった」と誰もが思い出すたびに口にしたが、実際、あまりの迫力に誰もが声を失い、生唾を呑み込んだ。そして勝負はこの一撃で決まった。光秀の本陣が大潰走し始めたのである。
信長は、勝った。光秀は京へ戻る途中、粟田口を避け、小栗栖を迂回したのが徒になったのか、百姓の落ち武者狩りに遭い、竹槍で刺殺された。6月13日のことだった。信長は京へ戻り、知恩院に兵を置き、阿弥陀寺を宿所とし、直子に再会、息子らも交えた宴となった。
(次回に続く)