桶狭間合戦への前哨戦 ─動乱が続いていた尾張と織田信長─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅①
■桶狭間合戦に至る数多の戦い!
~度重なる尾張の国難を凌いだ「大うつけ」の実像~
父・信秀の死後に台頭した信長が同族との戦いを制する

船団で出陣する信長軍のイメージ
この当時はまだ水軍を持っていなかった信長だが、桶狭間合戦以前から要衝となっていた伊勢湾〜知多半島を巡る攻防では、陸路に加えて海路からの戦略も多用した。CG /成瀬京司
織田信長は、天文3年(1534)、織田信秀(のぶひで)の嫡男として生まれた。実際には三男であったが、生母が正室であったため、嫡男とされたのである。
信秀は、大和守家の「三奉行」と呼ばれる一族家臣であった。守護代だったというわけではない。
このころの信秀は、内憂外患(ないゆうがいかん)に苦慮していた。内憂は、主家の大和守家やほかの一族との権力争いであり、外患は、駿河の今川義元による尾張への侵入だった。とくに三河との国境に位置する愛知・知多郡は、今川氏との攻防の最前線となっていく。
天文21年に父の信秀が病死すると、これを好機とみた大和守家の家老・坂井大膳(だいぜん)が反攻を開始する。このとき、那古野(なごや)城の信長は、清洲城外の萱津(かやづ)で大和守家方を破り、清洲城へと敗走させた。そして、天文23年、守護の斯波義統(よしむね)が大和守家の織田信友に謀殺され、義統の子義銀(よしかね)が信長を頼って那古野城に逃れてくると、信長は義銀を守護として擁立する。

大須万松寺通り
父・信秀の葬儀を行った万松寺の名をとった全長約380mのアーケード商店街になっている。(名古屋市中区大須)

斯波義銀肖像
尾張守護・斯波義統の嫡男。斯波氏の15代目で最後の当主となった。織田信長に頼って服属後は、守護であった斯波氏を称することをはばかって津川義近と改めた。(妙心寺大龍院蔵)
翌弘治(こうじ)元年(1555)、守護を殺害した守護代を討つという名分を得た信長は、清洲城を占拠し、大和守家を滅ぼした。
さらに、永禄元年(1558)に岩倉城を本拠とする伊勢守家の織田信賢(のぶかた)が清洲城の信長を討つために出陣してくると、これを尾張浮野(うきの)で迎え撃つ。従兄弟にあたる犬山城主・織田信清(のぶきよ)の加勢を得た信長は伊勢守家方を破って、さらに敗走する信賢を追って岩倉城を包囲した。信長はまず、岩倉城下を焼き払って裸城としたうえで、廻りに二重三重の鹿垣(しがき)を巡らせる。そして、籠城戦のすえ、信賢を降伏させた。信賢を逐った信長は岩倉城を破却し、尾張平定をほぼ成し遂げたのである。