石山本願寺攻め1570〜80年<その2>~天王寺陣城を打って出て敵包囲陣の突破を図る信長
戦国武将の城攻め【解体新書】#006
大坂死守を貫く本願寺と畿内制圧に自ら出向く信長
三津寺砦攻略を命じられた塙直政は本願寺側の兵力(1万余)と火力(数千丁の鉄砲)を侮り、楼岸砦から駆けつけた後詰部隊に逆包囲され、5月3日、討ち死にを遂げた。
これにより光秀や藤孝らが天王寺の陣城に押し込まれ、織田勢は苦境に陥る。4日、この敗報を京都で聞いた信長は、3000の精兵を率いて若江城に入った。
若江城は、天王寺の陣城の東2里余にある。
この頃、天王寺の陣城を包囲する本願寺勢は1万5000に増強され、信長率いる3000の織田勢の5倍ほどの兵力となっていた。
信長は住吉口から上町台地に上ると、敵の包囲陣を突破し、天王寺の陣城の味方に合流した。
ところが信長は7日、天王寺の陣城を打って出て敵包囲陣の突破を図る。これに圧倒された本願寺勢は、遂に崩れ立ち、上町台地北東端の本願寺目指して潰走する。
この時の戦いで信長は、本願寺そのものは攻略できなかったものの、2700もの首を取り、大勝利を飾った。
かくして信長は、本願寺方に立ち直れないほどの打撃を与え、以後、常に主導権を握り続けることになる。
結局、劣勢を挽回できなかった本願寺は、天正8年(1580)7月、大坂の地を信長に明け渡し、紀州に退去することになり、11年戦争は終わりを告げる。
(続く)