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織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは?


戦国時代、毛利元就が中国地方で勢力を拡大してくると、早い時期から毛利氏との関係を深めていた因島(いんのしま)村上氏だけでなく、来島(くるしま)村上氏も毛利氏に急接近した。だが能島(のしま)の村上武吉だけは、ひとり海賊衆の誇りとともに、独立した存在を守り続けていたのである。


 

村上武吉(1532〜1604)像 芸予諸島のひとつ、大島の「村上水軍ミュージアム」に建つ。2004年10月に開館したこの施設は、武吉の本拠である能島に面しているので、海賊衆が自在に利用した、激しい潮流を目の当たりにすることもできる。

船上の戦いを優位に進めた村上水軍の秘密兵器「焙烙火矢」

 

 瀬戸内の海が生み出す複雑で速い潮流を自分のものとしたことで、後世の歴史家から戦国最強の水軍と称えられた村上海賊衆。その華々しい戦いぶりで世間の耳目を集めたのが天文24年(弘治元年=1555)、毛利元就と陶晴賢(すえたかふさ)の間で行なわれた厳島の戦いであった。

 

 その頃、能島の頭領・村上武吉はいずれかの大名に属することもなく、「海の大名」として独立自在な立場を貫いていた。この合戦で武吉は毛利方に加勢し、陶方の軍船に切り込み焼き払い、散々に打ち破った。その後、実家の大友家を頼って逃れようとした大内義長(よしなが)を、海上封鎖することで九州へ渡らせず、自刃に追い込む活躍も見せている。

 

 村上三家のうち、早くから毛利氏に加担していた因島村上氏に加え、この戦いを契機に来島村上氏も本格的に毛利氏に肩入れを始めた。だが能島の村上武吉は、あくまで独立性を保ち続けた。「陶との戦いには協力したが、毛利に仕官したわけではない。代償が十分でなければいつでも他の大名に味方する」という立場を貫き続けたのである。

 

 永禄12年(1569)、元就が豊前から筑紫に兵を進めたことで、大友宗麟(そうりん)と対峙した。その際、来島村上氏は毛利方として参戦。武吉も毛利からの要請に従い、豊前に向かい出陣した。しかし元就の背後を出雲の尼子残党が襲ったことで、能島の船団は上ノ関で停泊したまま日和見を決め込んだのだ。そのため先着していた来島の船団は苦戦し、毛利軍は筑紫から撤退することとなった。

 

 これが原因となり毛利・来島の軍と能島の軍が戦端を開く事態が起きている。この戦いは翌年には和平が成立したが、武吉は元亀2年(1571)に再び毛利氏に敵対した。この段階でも、武吉は独立した海賊衆としての思想や行動様式を貫いていたのだ。だが毛利氏が中国全土をほぼ手中に治めると敵対行動は影を潜め、天正2年(1574)には毛利氏臣従。以後、武吉は毛利氏の忠実な武将となり、二度と敵対することはなかった。

 

 その頃になると、時代は大きく動き出していた。織田信長により、天下統一の兆しが見えてきたのである。その前に立ちはだかったのが、石山本願寺であった。本願寺と信長は元亀元年(1570)に敵対し、停戦していた時期はあるものの天正8年(1580)に和解(実質的には織田方の勝利)するまで、約10年もの間、戦い続けた。毛利氏は本願寺を助け、信長と対決する道を選んだのである。そして織田軍による兵糧攻めに苦しむ本願寺に、兵糧米や武器を搬入することを決した。

 

 天正4年(1576)7月、村上水軍を中核とする毛利方の軍船7〜800艘が兵糧を満載し、大坂湾に現れた。毛利水軍を指揮したのは、武吉の嫡子村上元吉(もとよし)と浦宗勝(うらむねかつ)であった。これを阻止するため織田水軍も、300艘ほどの軍船を浮かべ迎え討った。これが今日、第一次木津川口の戦いと呼ばれる海戦である。

 

 戦国時代の海戦は後世のそれとは違い、船の上での戦闘で雌雄を決した。最後は敵船に飛び移り、白兵戦を繰り広げている。船上での戦いは陸上よりも時間がかかり、狭い船の中で立ち回るため人的損耗も甚だしい。そのため、敵方よりも先に有利な状況を作れるかどうかが、勝敗の分かれ目になった。

 

 その点、村上水軍は圧倒的に優れた兵器を所有していた。それは自らが考案した「焙烙火矢(ほうろくひや)」である。今風に言えば手榴弾だ。壺のような陶器の中に、火薬を詰めて導火線に点火。それを敵船めがけて投げ込むというもの。当時の船は木製なので、火気は厳禁である。しかも兵は鎧を身に付けているので、海に飛び込むわけにはいかない。

 

 織田方の飛び道具は、陸上で使用するものと同じ火矢であった。揺れる船上で正確に狙うのは難しく、敵船に投げ込むだけの焙烙火矢と比べると圧倒的に不利だ。こうして織田方は、壊滅的な被害を受け敗北。『信長公記』には人数は記載されていないが、ほとんどの武将が討死したと記されている。村上水軍の活躍により毛利方は、本願寺に兵糧を運び入れることにも成功したのであった。

 

 思わぬ大敗北を喫した信長は、すぐさま志摩の海賊大名である九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じ、焙烙火矢が効かない鉄張りの大型船を建造させている。天正6年(1578)6月、大鉄砲を備えた鉄甲船6艘が完成し、9月には信長臨席の船揃えが行なわれた。その後、九鬼嘉隆座乗の船を旗艦とし、本願寺に通じる木津川口を封鎖するように配置された。

 

 同年11月6日、またしても毛利方は本願寺に兵糧を運び入れるため、村上武吉が率いる600艘の船団を送り込んで来た。毛利方は河口を塞ぐ6艘の巨大船に驚きつつも、これを小早船(こばやぶね)で包囲すると、得意の焙烙火矢を投げ込む攻撃を仕掛けた。だが防火装置として装備された鉄板に阻まれてしまう。

 

 織田方は大鉄砲で、毛利方の将が乗る船を狙い撃ちにした。それまでは連戦連勝を誇り、無敵と称えられた村上水軍も、鉄甲船の前には得意の戦法が通用せず、次々に沈められてしまった。この第二次木津川口の戦いで、村上水軍は多くの優秀な将兵と小船、それに莫大な物資を失ってしまう。それに当初の目的であった、本願寺への兵糧搬入にも失敗してしまったのだ。

 

 陸上の戦いでは信長の部将・羽柴秀吉が中国方面の大将に命じられ、播磨から備前へ軍を進めていた。秀吉は中国進攻に際し、背後を脅かす村上水軍に対して巧妙な勧誘工作を展開する。天正10年(1582)になると、来島の村上通総(みちふさ)が秀吉の調略に応じた。怒った毛利氏は武吉・元吉父子と浦宗勝らに来島城を攻撃させ、通総を瀬戸内から追放してしまう。

 

 通総は秀吉のもとに走り、名を来島に変え側近として仕えた。ほどなく本能寺の変で信長が討たれると、秀吉は毛利氏と和睦。天正13年(1585)、秀吉の四国征伐の際に来島通総は、小早川隆景の軍の先陣となった。戦後はその武功により、伊予国野間(のま)・風早(かぜはや)郡内で1万数千石の知行を与えられている。

 

 一方、秀吉は来島を攻撃した武吉を憎み、天正16年(1588)に発した「海賊禁止令」により、武吉父子はすべての海上特権を奪われてしまう。その後、武吉父子が禁止令に触れる関銭徴収を行なったことが判明。厳罰に処されることになったが、小早川隆景らのとりなしで切腹だけは免れた。しかし瀬戸内海での居住を許されず、筑前や長門の内陸部に移住することになってしまったのだ。

 

 こうして平安時代より、瀬戸内海を我が物とした海賊衆としての村上氏は、その歴史に幕を閉じることになったのである。

 

因島の金蓮寺は村上家の菩提寺で、境内の墓所には村上家やその家臣の石塔がずらりと並んでいる。寺のすぐ隣りには、村上水軍の貴重な資料を収めた「因島水軍城」が建つ。芸予諸島は2017年に日本遺産に認定されている。(写真:尾道観光協会)

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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