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村上水軍の秘密基地・芸予諸島とは?

戦国期に無双の傭兵としてその名を轟かせた「村上海賊衆」

今治の糸山の浜から30mほど沖合いに浮かぶ小島には厳島神社が置かれていた。島に建てられた鳥居は、満潮時には脚部が海面下に没するが、干潮時は島の上にあることがわかる。瀬戸内海は干満の差が大きい。

「海が暴れている」

 

 そんな表現がピッタリだと思った。それが初めて村上水軍が本拠地としていた、瀬戸内海に浮かぶ能島という小さな島を取り巻く、海の様子を目にした時の感想である。

 

 広島県の尾道市と愛媛県の今治市の間に横たわる瀬戸内海には、まるで飛び石のように大小の島々が点在している。ここは広島県の旧国名である安芸(あき)国と、同じく愛媛県の伊予(いよ)国から一文字ずつ頂き、芸予(げいよ)諸島という名が付けられた。島々の間を抜ける海域は、昔から潮流が速いことで知られていて、島の間の狭い海峡を航行するのは、現在のエンジン船でもかなり苦労する海の難所だ。

 

 潮流というのは、潮の満ち引き(潮汐/ちょうせき)によって引き起こされる海の流れのこと。多くの場所では1日のうち一方向に2回、逆方向に2回流れる。四国と本州に挟まれた瀬戸内海の東側は、淡路島により太平洋への出入口が塞がれているため、明石海峡と鳴門海峡で潮汐が逆位相(ぎゃくいそう)となってしまう。そのため鳴門海峡側に有名なうず潮が起こる。

 

 そして西側は、潮流が芸予諸島の島々を抜ける際、複雑にして速い流れを生み出す。そのような厄介な海域だからこそ、その海を利用して自らの勢力を拡大しようとした連中が現れた。それが戦国時代、最強の海の武士団と呼ばれた「村上海賊衆」だ。

 

 海賊という言葉を耳にすると、R・スティーブンソン作の『宝島』に登場した、一本脚の海賊ジョン・シルバーを思い出す人もいるだろう。また今では、ディズニーランドや映画にもなった『カリブの海賊』をイメージする人も多いと思われる。荒くれ者が髑髏(どくろ)旗(ジョリー・ロジャー)を翻し、獲物の船を追って大海原を自在に駆け巡る。

 

 しかし村上氏をはじめとする、戦国時代の日本で活躍した海賊衆というのは、それとはまったく趣が違う。戦国時代の海賊衆は、前にも触れたように海の武士団という要素が強く、戦国大名と結んでその水軍として働いていた。とは言え彼らと大名の間には主従関係が存在したわけではない。船戦に関する技術や能力を提供する代償として、報酬をもらう傭兵といった関係であった。

 

 海賊衆は警固衆(けごしゅう)とも呼ばれ、瀬戸内海を中心に、鎌倉時代の終わりから南北朝期にかけて誕生した海上武装集団である。彼らが経済的な基盤としていたのは、おもに次の3つの活動によってであった。

 


     

    ・輸送船等の海上警固

     海の難所や他の海賊衆から積み荷を警固し、無事に目的の湊まで送り届ける代わりに、積み荷の何割かを徴集。

     

    ・海の通行料を徴集

     自分たちが支配していた海域を航行する船舶から、帆別銭(ほべちせん)という通行料を徴集した。これは帆の大きさや数により徴集する量が違った。海賊衆は水路の要所要所に城や砦を築き、航行する船を見張り、帆別銭を払わずに通り抜けようとする船を見つけたら、すぐに持ち船を繰り出して襲いかかり、積み荷全部を奪取した。

     

    ・戦国大名の傭兵

     基本的には請われればどの大名の元でも働いた。あくまでも契約による警固働きなので、臣下となって特定の大名に仕えることはほとんどなかった。

     


     

     以上のように、独自の経済基盤を確立していた海賊衆は、戦国時代となっても独立性を維持した武装集団であったのだ。その中でも、芸予諸島の能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)に居を構えた村上一族は、めきめきと実力を蓄えていった。

     

     村上氏の本拠地とされている能島は、芸予諸島の中では四国の今治寄りの小島で、大島と伯方島に挟まれた海峡に浮かぶ。大島と能島の間の狭い海峡は、もっとも速い時で8.9ノットという潮流が起こるのである。

     

     1ノットは1時間に1海里を進む速さを意味する。1海里は1,852メートルなので、8.9ノットは時速約16キロになる。これは自転車で走るのとほぼ同じ速度だ。その速さで川よりも遥かに体積の大きな海の水が流れて来るのだから、人の力でこれに逆らうのは難しい。実際、この海峡を通過していたエンジン船は、流れに逆らって進む場合、まるで急坂を喘ぎながら登る人のような速度しか出ていなかった。

     

     無数の島が点在することで、随所で複雑な潮流を見せる瀬戸内海の中でも、島が密集している芸予諸島周辺では、多くの海域でこのような危険な潮流が起こる。しかし瀬戸内海は古くから九州の諸国や長門国(ながとのくに)、伊予国と畿内を結ぶ重要な航路であった。そのため危険を承知で芸予諸島に阻まれた海域も越えなければならなかったのだ。だからこそ、水先案内人としての村上氏の存在が重要だったわけである。一番四国寄りの来島、真ん中付近の能島、そして本州寄りの因島という三島に城をかまえていれば、どこの海峡を通過する船でも目を光らせておくことができる。

     

     おまけにこれだけ航行が難しい海を熟知していれば、それを逆手に取ってつねに自軍が有利になるような船戦が展開できた。戦国時代になると、その実力に陸の大名たちが目をつけたのである。

    鵜島の左側に見える小島が村上水軍の本拠地だった能島だ。数字はその位置の水深、矢印とknは潮流の向きと速さをノットで表したものだ。8.9ノットや9ノットという凄まじい流れを生じるのがわかる。『海上保安庁図誌利用第080615号』

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    野田 伊豆守のだ いずのかみ

     

    1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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