犬山城(愛知県犬山市)~落城の悲劇が繰り返された名城
名城の鑑賞術 第4回
“望楼型”天守の典型例も望楼が上げられたのは江戸時代以降と判明

犬山城は2層の入母屋屋根に望楼を乗せた望楼型天守の代表例。古いタイプの天守という誤解から、多くの模擬天守のモデルとなった。犬山城本丸では、天守の側面には柵が設置されて後方へ回り込むことができないため、撮影できるアングルは正面中心に限定される。撮影/外川淳
天文6年(1537)、織田信康によって築かれるのだが、永禄7年(1564)、その子信清は、義兄にあたる織田信長に攻められ、城主の座を失った。犬山城攻略により、信長は悲願の尾張統一を達成した。
天正12年(1584)、小牧合戦の前哨戦では羽柴方によって攻略され、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦でも東軍の攻撃を受けて落城した。
犬山城は、木曾川を天然の堀とする「後ろ堅固(けんご)」の要害の地に築かれたものの、敵に包囲されると、逃げ道がなく、城兵の多くが逃げてしまうことから、意外にあっさりと敵の手に落ちることが多かったのである。
いわば、戦国史に登場する犬山城は「負け犬」のように吠えるだけの存在だったのかもしれない。
つねに、犬山城の攻防戦では、城下町エリアへ敵の侵入を許した時点において勝敗は決していた。そのため、元和3年(1617)、成瀬正成が犬山城主となると、城下町全体を防御するため、惣構(そうがま)えを強化した。
ただし、惣構えが完成したころには、元和偃武(げんなえんぶ)と称された平和な時代を迎えたことから、惣構えは活用されることはなかった。明治維新以後、惣構えは無用の長物とみなされ、地上から徐々に姿を消していった。
かつて、犬山城の天守は、天文6年(1537)、信長が犬山城を築くのとともに完成したと思われていた。つまり、城と天守の完成年代は同一と考えられ、犬山城は現存天守のなかでも最古の天守とみなされたのだった。
犬山城天守は、構造的には入母屋(いりもや)屋根の二層櫓(やぐら)の上に望楼(ぼうろう)として三階を乗せる望楼型と分類される。この望楼型天守は犬山城を典型例とし、そして犬山城は最古の天守という流れから、もう一つの天守のタイプである層棟(そうとう)型と比較すると、古いタイプと考えられていた。
そのため、戦国時代から存続した城の天守を推定復元するときには、「犬山城は古いタイプ」というイメージから、判を押したようにモデルとされていた。
だが、近年の研究によると、最上層の望楼が上げられたのは、元和6年(1620)、つまりは江戸時代に入ってからのことと判明。入母屋屋根の二層櫓が築かれたのも、関ヶ原合戦後という説もある。つまり、望楼型天守は古いタイプという考えは成立しなくなったのだ。たとえ、古いタイプであったとしても、新しいタイプである層棟型へと移行するのではなく、天守の建築様式として利用され続けたのだった。
最上階の花灯窓(かとうまど)を見ると、戦国の城らしさをイメージするのだが、それはデザイン上の好みの問題であり、時代の変遷を物語るものではなかった。「犬山城の天守が既存の説より古いものではなかった」という過程をみてみると、城や天守にまつわる過去の定説や常識には、誤りも少なくなかったことがよくわかる。