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現代版の小早船・シーカヤックを駆使して 村上水軍の海を体感し戦術を探る

毛利元就もその実力を認めた「海の武士集団」村上水軍の実像に迫る! 第3回 

潮を制するものが瀬戸内海を制す!

アリューシャン地方のイヌイットが考案した小舟を、スポーツレジャーに活用できるように改良したシーカヤック。写真の1人艇のほかに、2人艇もある。波を切り裂いて進めるように、直進性に優れたシャープで長いフォルムを持つ。

 

 瀬戸内海は本州と四国という陸地に挟まれているため、太平洋のように激しい風浪が起こる事はとても少ない。しかし速く複雑な潮流は毎日起こるため、古くから東西交通の大動脈でありながら、大変な難所としても知られていた。そのような海域だからこそ、海を熟知した海賊衆が幅を利かせたのである。

 

「船に乗るより潮に乗れ!」

 

 そんな合言葉とともに、村上氏をはじめとする瀬戸内の海賊衆は、我が物顔で海を跋扈(ばっこ)したのであろう。彼らがおもに用いていた軍船は、小早(こはや)船と呼ばれた小型の快速船であった。芸予(げいよ)諸島のように島が多く、潮流も複雑な海域では、小回りの効く船のほうが何かと使い勝手がよかったからである。

 

 そんな村上水軍の実態を体感しようと考えて、過去に芸予諸島の海を人力で漕いでみたことがある。その際に使用した船はシーカヤック。実際に漕いで渡ったのは、村上水軍の一大根拠地であった能島(のしま)と来島(くるしま)であった。

 

 シーカヤックというのは、アリューシャン地方の原住民であるイヌイットが、漁労に用いるために考案した船である。もともとのスタイルは、冷たい北方の海から身を守るために、乗船者の下半身をアザラシの皮で作られた船体内に収めた。転覆しても船内に海水が入らないように、コクピットと身体の隙間にもアザラシの皮で作ったカバーをかける。

 

 現在では船体はFRPやポリエチレン、カバーはナイロンやネオプレーン製のものが用いられている。波切り性に優れ、スピードが出やすいシャープな船形をしているのが特徴だ。1人艇と2人艇があり、静水ならば1人艇で時速4ノット(1ノットは時速1852メートル)、2人艇なら時速5ノット程度で巡航することができる。これならば漕ぎ手が10人以上は乗っていた小早船と、遜色のない速度を出すことができるであろう。

 

 まずは愛媛県今治市の目前、来島海峡に浮かぶ来島を目指した。糸山にある小さな浜から眺めると、目指す来島はまさに指呼の間である。距離にしたら500メートルといったところか。

 

 だが穏やかに見える海は、確実に見えない流れに支配されている。この激しい潮流をしっかりと体感するため、訪問はあえて潮流が最も激しい大潮の日を選んだ。だが渡る際は大事をとり、満ち潮と引き潮が入れ替わる時に起こる「潮止り」の時間を狙った。

 

 来島は周囲1キロメートルほどの小島で、島の北東側は来島ノ瀬戸、西側は西ノ瀬戸と呼ばれる、潮の流れが速い海に囲まれている。島の南側には港があり人家も建っているのだが、北側は島の中央に聳(そび)える標高50メートル弱の山が海に落ち込み、その際まで樹木が生い茂り人を寄せ付けない。昔は拓けた南側以外、三方が北側のような状態だったと考えられる。付近の海を熟知していなければ、この島には近づくことも容易ではなったであろう。

 

 中央の山上に物見櫓(ものみやぐら)を設置すれば、島の両側の水道から隣りに浮かぶ小島(おしま)を隔て、来島海峡西水道を航行する船をも掌握することができる。ここを通る船は、嫌でも来島の村上衆の監視下に置かれてしまうのだ。

 

 来島からの帰路は引き潮の真っ最中であった。海図で確認すると、わずか500メートルの水路の真ん中付近に5ノットほどの潮流があり、それを横切ることになった。短いピッチの三角波や小さな渦、さらには海底から湧き上がり海面を押し上げるような海水に、小さなカヤックは翻弄されるばかり。この瞬間、来島は間違いなく厄介な水堀に囲まれた、難攻不落の城であったという実感が湧いてきた。

 

 続いて訪れたのが村上氏の本拠と言われる能島である。この島は芸予諸島の中では大きい部類に入る大島と、小さな部類の鵜島の間に浮かんでいる。最初に訪れた来島の半分にも満たない、文字通りの小島だ。しかも大島と能島の間の荒神(こうじん)瀬戸は、最大で8.9ノット(時速約16.5キロメートル)という、凄まじい潮流が生じる。川の激流には速さでは及ばないが、水の体積が圧倒的に大きいので、とても人間ひとりの力で逆走することはできない。

 

 しかしこの海域は、芸予諸島を抜ける最短ルートなので、多くの船舶が往来する。それだけに、水先案内を務める代わりに報酬を頂くという、海賊ならではの経済活動を行なうのにうってつけの海域だと実感できた。

 

 実際に海を人力のみで漕いでみると、村上海賊衆は城を構える際、瀬戸内海特有の複雑な潮流を巧みに利用していたことが体感できた。潮の動きを正確に把握していないと、船を沈めてしまうことにもなってしまう。

 

 水は流れる方向に障害物があると、その後方や側面に主流と反対方向の流れを生む。川で澱(よど)みが生じるのと同じ原理だ。能島の場合、上げ潮でも引き潮でも、島の東西に澱みが生じることがわかった。さらに引き潮の際には、北側にも澱みが生じる。澱みの部分に船を隠しておけば、潮流の影響を受けずに済む。

 

 島の東西に船を係留しておけば、帆別銭(ほべつせん)を支払わず海域を通過しようとする船が島のどちら側を突破しようとしても、すぐに対応することができる。そして能島に付随する鯛崎島(出丸が置かれていた)の間の、流れの激しい海域に獲物とする船を追い込み、難破させて積荷を強奪したのである。

 

 瀬戸内海の海賊衆は、潮の流れやそれによって生じる澱み、潮止りといった自然の力を味方にして、海上の戦いを有利に運んだ。戦国時代になり、陸の大名たちの水軍として船戦を担うようになっても、海の特性も武器として戦っていたと思われる。

 

 だから潮流が早く、多くの島により複雑な水路を形成している芸予諸島を根拠地としていた村上水軍は、小回りの効く小早船を戦力の中心に据え、敵船を素早く取り囲み、巧みにコントロールが効かなくなる海域へと追い込んでいったのだ。

 

 現在は潮流の速さや方向、干満の時間などから、危険な水域を事前に知ることができる。しかし村上水軍が活躍した時代は、当然人の経験や勘だけが頼りであった。シーカヤックによる村上水軍根拠地巡りは、身をもってそれを知ることができた、貴重な体験となった。

 

村上水軍は四国に一番近い来島、中央付近の能島、そして本州側の因島に大きな根拠地を置き、通過する船に睨みを効かせていた。因島には村上水軍の甲冑や刀剣、戦術を記した巻物などの資料を紹介する資料館「因島水軍城」があるので、ぜひ立ち寄っておきたい。
写真/尾道観光協会

 

(最終回に続く)

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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