羅生門の鬼〜都城の正門・羅城門に鬼がいた!
鬼滅の戦史㉓
再建を断念したのは鬼のせい?
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腕を取り返しにくる『謡曲』にも描かれた羅城門の鬼『百鬼夜行』3巻拾遺3巻より国立国会図書館蔵
鬼の生息地としては、2回目で紹介した酒呑童子(しゅてんどうじ)一党の根城・大江山(おおえやま)が、何といってもよく知られるところである。ただし、平安京の都城内に限って言えば、その正門にあたる羅城門(らじょうもん)の名を筆頭にあげるべきだろう。かつて朱雀大路(すざくおおじ)の南端にそびえていたとされる、桁行7間(9間との説も)、梁間2間の二重閣という壮大な城門である。
いつ建造されたのかは不明ながらも、建造後の弘仁7(816)年に大風が吹いて倒壊。その後再建されたものの、天元3(980)年にまた倒壊するなど、2度も災害に見舞われたことが判明している。以降、再建されることはなかった。再建断念の理由の一つとして、ここに記す鬼伝説にまつわる悪評が加味されていたのではないかと思われるのであるが、果たして?それが、俗に羅生門(らしょうもん)の鬼と言い伝えられる伝承である。まずは、この逸話をさらに臨場感溢れる物語として描いた謡曲・羅城門から、その情景を垣間見ることにしたい。
渡辺綱が成敗した鬼とは?
時は、藤原道長に仕えていた武将・源頼光が、大江山の鬼退治を終えた後のことというから、平安時代も後半、10世紀も末の頃か。舞台は頼光の屋敷である。そこに、配下の四天王(碓井貞光、坂田金時、卜部季武/うらべすえたけ、渡辺綱/わたなべのつな)や和泉式部の夫・平井(藤原)保昌(やすまさ)を招いて、酒宴を張っていたところから物語が始まる。宴もたけなわとなった頃、保昌が何気なく「羅城門に鬼がいる」と言い出したことが、論争の始まりであった。これに反論したのが渡辺綱。「王地たる都城南門に鬼なぞ棲食うはずがない」と言い張るのである。ならば「確かめよ」との貞光の言に押されて、綱が一人馬に乗り、都の南端にそびえる羅城門へと向かったのだ。
雨が降りしきる夜であった。城門に近づくにつれ、風雨が激しくなる。それでも、何事もなかったかのように、来訪のしるしの札を門前に立てかけ、「いざ、帰らん」と踵を返そうとしたその時、突如、背後から綱の兜を掴み取ろうとする者がいた。それが、目を爛々と輝かせて睨みをきかす奇怪な鬼であった。
綱がすかさず太刀を振りかざすも、鬼の鉄杖とぶつかってカチリ。幾度か激しく渡り合った後、ついに綱が鬼の腕をバサリと斬り落した。痛手を負った鬼が逃げ口上として声高に叫んだのが、「時節を待ちて又取るべし」の一言であった。「覚えてろ、てめえ!近いうちに取り返しに来てやるからな」とまあ、こんな風に言うのである。
謡曲『羅城門』はここで話を終えるが、その後日談が、鎌倉時代に記された軍記『平家物語』(剣の巻)(ここでは、鬼はうら若き女に化けて登場。舞台も羅城門ではなく、一条戻橋であった)に記されているので参考にしたい。
それによれば、屋敷に戻った綱が、斬り落とした鬼の腕を櫃(ひつ)に入れて警戒し続けたという。鬼が7日目に奪いに来ることになっていたが、その最後の夜、綱の叔母と称する老婆が訪ね来て、鬼の腕を見せてくれるよう所望。綱もつい心が緩んだのか、老婆の言につられて、鬼の腕を箱から取り出して見せてしまった。と、突如老婆がそれを手に掴むや、「これは吾が手なれば取るぞよ」と叫んで、虚空へ飛び去ってしまったというのである。
この老婆と化した鬼が腕を取り返しにくるという話は、謡曲『茨木』にも登場する。ここでは、その鬼の名を酒呑童子の手下・茨木童子としているのが少々気がかり(なぜか、ここでは羅城門の鬼を茨木童子と同一視している)ではあるが、ともあれ、鬼は腕を取り戻して、忽然と姿を消してしまうのである。
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酒呑童子の手下・茨木童子を描いた謡曲『茨木』楊洲周延筆/国立国会図書館蔵
権威が失墜する都の荒廃ぶり
それにしても、綱が「王城に鬼がいることなどあり得ない」と憤慨したように、都の正門である羅城門が鬼の巣窟になっているというのは、本来ならあり得ない話である。しかし、9世紀に遣唐使が廃止になって以降、外交使節が訪れることも少なくなったこともあってか、権威の象徴としての城門の存在感も薄れたようである。
しかも、当時は疫病が蔓延。地震、火災、つむじ風などの被害も続出したようで、荒廃ぶりが凄まじかった。特にひどかったのが養和年間(1181〜1182年)で、この時は2年連続の大飢饉。初年度でさえ、都だけで4万2300人が餓死したとか。鴨長明(かものちょうめい)も『方丈記』に、「飢え死ぬる者のたぐい数も知らず」と記したほどであった。
この鬼物語の時代設定はその前世紀ゆえ、さすがにそこまで状況はひどくなかったと思われるが、社会情勢が不安定だったことに変わりはなかった。特に羅城門のあるところは都のはずれ。経済的に疲弊していた朝廷としては、城門が荒れ放題となったとしても、もはや手をつける余裕さえなかったのだろう。そこに死体が放り込まれたということも、まんざらあり得ないことではなかったのだ。
この辺りの実情は、『今昔物語集』(二十九の十八)の「羅城門の上層に登りて死人を見し盗人の語」にも記されている。災難続きの京の都が荒れ果て、羅城門でさえ、死体が放置されるほどだったと記されている。そこに盗人の男が入ったところ、死体が積み上げられた中に、老婆がゴソゴソ。何と、死体の髪の毛をむしり取っているのである。男はその老婆の着物まで剥ぎ取って逃走。生きるための必死の情景が描かれている。芥川龍之介が著した『羅生門』は、この話を素材にしたものである。
ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する鬼の巣窟といえば、言わずもがな、無惨の本拠地・無限城(むげんじょう)。こちらはむしろ、豪華絢爛(けんらん)。平安時代の鬼の巣窟のおぞましさとは、隔世の感がありそうだ。
(次回に続く)