丸岡城天守(福井県坂井市)~震災からの奇跡の復活
名城の鑑賞術 第6回
松本・犬山と並んで最古天守候補のひとつ

平野の中央に浮かぶ小島のような丘の上に聳え立つ。天守最上階からは、城下町をはじめ、広大な福井平野が一望できる。別の視点に立てば、城下町をはじめ、周辺からは、2層の天守を仰ぎ見ることができる。城主としての威厳を示すには、絶好の立地環境に築かれた。撮影/外川淳
天正4年(1576)、丸岡城が築かれるとともに天守も創建されたという。そうすると、現存天守のなかでは最古となるのだが、創建年代は定かでなく、慶長17年(1612)以後という説もある。漆黒の木張りの壁からは、古風なイメージが演出され、いかにも古いタイプの天守を思わせる。だが、江戸時代に入ってから建築された天守も同系統のものがあり、時代の違いというより、城主の好みによるようだ。
現存天守のうち、最古候補の丸岡・松本・犬山の三城はともに完成年代が諸説分かれる。そして、いずれも関ヶ原合戦後の創建とする説もあり、いまだに最古の天守は確定されていない。
丸岡城は、築城以来、北庄城(きたのしょうじょう)の支城としての役割を果たした。そのため、関ヶ原合戦後、結城秀康(ゆうき ひでやす)が北庄城主になると、丸岡城には重臣が城将として配置された。だが、秀康の後継者である松平忠直が改易処分を受けると、丸岡城主の本多氏は独立した大名として認められた。本多氏が御家騒動によって改易処分となったのち、有馬氏が入城し、明治維新を迎えた。
今では城下町の各所から小振りな天守を仰ぎ見ることができるのだが、有馬氏時代には最上層の屋根が見え隠れするほど、城山は樹木に覆われていたという。
明治5年(1872)、丸岡城は廃城処分となると、天守以外の建物は解体処分となり、建築資材として再利用された。ただし、天守は、解体に手間がかかることから、放置された状態が続いた。
明治34年(1901)、天守は丸岡町へ移管され、城跡は公園化されるとともに、保存への道筋が開かれた。
昭和23年(1948)6月28日17時13分、福井地震が発生。天守は、震源に近かったことから、1層に生じた大きな歪みに対し、3層が耐え切れなくなり、滑り落ちるように倒壊した。
崩れ落ちた残骸は、仮設された小屋の内部に収納された。だが、文化財の再建よりも、日常生活に関連する分野への復興が優先されるうち、小屋には雨漏りが生じ、残骸の破損が進行した。
昭和26年12月、震災からの復興が一段落つくと、丸岡城では、天守の修理工事が起工された。
天守の残骸は、どの部分かを記録することなく、小屋へ収納された。そのため、江戸時代に作成された図面や、昭和15年から3年間かけて修理したときに撮影した写真を照合しながら、使用されていた箇所を判読した。
残骸を再利用することが大原則とされながらも、老朽化や崩壊時の破損によって使用できない柱や梁は、新しい木材と差し替えられながら、修復工事は進められた。新規に調達された木材は、古色塗りと称される技法により、新旧資材の差がはっきりとしないような工法が使用された。発掘された土器を修復するような作業が地道に繰り返された結果、昭和30年3月、天守の修復工事は完了した。
かつて、丸岡城の天守は国宝に指定されていたが、文化財保護法の制定によって国指定重要文化財となった。「丸岡城天守を国宝にする市民の会」は、国宝への昇格を目指した運動を展開。ただし、歴史遺産としての重要性に差異はなく、すべての国宝昇格が望まれる。