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松江城(島根県松江市)~世界遺産登録を目指す国宝天守

名城の鑑賞術 第5回

明治時代には天守解体の危機もあった

重要文化財から「昇格」した国宝天守。白と黒によるモノトーンと、城郭建築特有の直線となだらかな曲線によって構成される機能美は、来訪者を魅了し続ける。堀尾氏によって築かれた石垣もまた、松江城の魅力であり、見落とせない。撮影/外川淳

 堀尾吉晴(ほりおよしはる)・忠氏(ただうじ)父子は、関ヶ原合戦で徳川方に味方することにより、出雲一国の主へと出世し、松江城を築いた。だが、堀尾氏は幕府によって取り潰され、松江城には親藩大名の松平氏が送り込まれた。

 

 時は過ぎ、松江藩松平家は、長州征討においては、幕府軍の後方支援基地としての役割を果たした。そのため、明治新政府が成立すると、山陰地方における佐幕派の中核とみなされ、松江藩討伐軍が結成された。

 

 慶応4年(1868)2月、松江藩首脳部は新政府へ服属を表明した。そのため、会津藩松平家のように凄惨な籠城戦のすえ、降伏するという悲劇は回避された。

 

 島根県の東隣にあたる鳥取県は、県名と県庁所在地の都市名が一致する。その法則に従えば、松江県松江市なのだが、島根県松江市となった。なお、島根県の名称は、松江の町が出雲国松江郡に位置したことを由来とする。

 

 明治政府は、佐幕派に属した藩への差別意識から、県の名称を決定するとき、城下町の名称を避け、城下町のある郡名としたともいう。佐幕派差別の法則の実例としては、岩手県、宮城県、群馬県、山梨県、愛知県、香川県などがあげられる。

 

 明治4年(1871)1月、松江藩は、政府に対して「城郭は近代兵器への導入により、無用の長物となった。松江城を廃し、維持管理の費用を省いて時代に即した利用方法を考えたい」という上申書を提出したところ、許可された。明治6年9月には、再利用のモデルケースとして、県内の特産品を紹介する勧業博覧会が城内で開催され、多くの来場者を集めた。

 

 だが、明治8年5月、建物の老朽化が進んだことから、城内のすべての建物は取り壊されることになり、天守も落札された。落札者は、木材や瓦をリユースする価値を認めず、解体の手間を省くため、天守を焼却して金属類だけを回収しようとした。

 

 旧松江藩士たちは、天守が失われることを惜しみ、資本家の勝部本右衛門(かつべもとえもん)の協力を仰ぎ、入札金額と同額を政府に支払うことにより、城下町松江のシンボルを守った。

 

 明治23年、城跡は旧藩主の松平子爵家に払い下げられ、本丸と二の丸は、城山公園として一般に解放された。昭和2年(1927)、松平子爵家は、松江市に城跡を無償で寄付。城山公園は、所有権の移管にともない、かつての景観を保持しつつ、市民や旅行者の憩いの場として整備された。

 

 昭和25年6月には、天守を覆う巨大な素屋根が建設され、その内部で全面解体をともなう復元修理が開始され、5年後の4月に完成した。

 

 松江城の天守は、昭和10年、国宝の指定を受けたが、昭和25年、文化財保護法の制定によって国指定重要文化財となった。日本国内に現存する12の天守のうち、姫路・松本・彦根・犬山の4城は国宝なのに対して、残りの8城は重要文化財に指定された。

 

 平成21年(2009)、「松江城を国宝にする市民の会」が結成された。平成27年には運動の成果が実り、松江城天守は国宝に指定された。現在、世界文化遺産への登録が目標として掲げられ、国宝5天守との共同での申請とともに、出雲大社との共同での申請も模索されている。

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外川 淳とがわじゅん

1963 年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部日本史学専修卒。中世から近代の軍事史に造詣が深く、歴史ファンとともに古城、古戦場をめぐる歴史探偵倶楽部を主宰。主な著書に『地図から読み解く戦国合戦』(ワック)『戦国大名勢力変遷地図』(日本実業出版社)など。Yahoo! ブログ「もっと² 地図から読み解く戦国合戦」では、紹介しきれなかった写真や取材成果を掲載の予定。

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