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激闘!海の奇襲戦「厳島の戦い」~ 勝因は村上水軍の戦術

闇夜に大潮…海という自然も武力の一つ

暴風雨の中で渡海する元就を描いた、月岡芳年の『大日本名将鑑 毛利元就』。豪雨の中、厳島へ渡る毛利軍の船は、元就の乗った船だけに篝火(かがりび)が炊かれたという。もともと新月で闇夜ではあったが、さらに視界が悪かった。

 村上水軍の名を不動のものとしたのは、天文24年(1555)の厳島の戦いであろう。この戦いは毛利元就が、安芸の厳島に陣を張った陶晴賢(すえ はるかた)を急襲。これを打ち破ったもので、戦国大名毛利氏にとって、きわめて重要な事件であった。同時に、瀬戸内海に割拠していた海賊衆の存立にも影響を与えている。

 

 毛利氏がこの戦いに勝利できたのは、能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)に居を構えていた三島村上氏が毛利方となったからというのが、ごく一般的な見解だ。しかし村上氏は参戦していない、という説を唱える研究者も存在する。ここでは、前者の一般的な説に従って話を進めたい。

 

 毛利氏と陶氏は、いずれも元を正せば周防国を本拠としていた大内氏の一家臣にすぎなかった。ところが天文20年(1551)、陶晴賢が主君であった大内義隆を自刃に追い込み、自らが大内氏の実権を握ってしまう。この行為に反発したのが毛利元就・隆元父子であった。元就にとって義隆は主君であり、隆元の妻は義隆の養女だったからだ。

 

 天文23年(1554)になり、晴賢は石見の吉川氏との戦い(三本松城の戦い)において、元就に出陣を要請。しかし元就がこれを拒否したことで、両者の対立は決定的になる。しかし大内の実権を握る晴賢と、安芸の小領主でしかない元就では力の差がありすぎる。

 

 そこで元就は次男の元春を吉川家、三男の隆景を小早川家の養子とした。加えて安芸と備後(びんご)の大半を鎮圧し、来るべき陶氏との戦いに備えた。毛利方にとって心強かったのは、三男の隆景が継いだ小早川家は、南北朝の頃から瀬戸内海島嶼(とうしょ)部に勢力を張っていたことであった。その頃から海路を抑えて活発な商業活動を行なっていた家柄で、戦国期には配下に水軍も持っていたのである。

 

 どうしても兵力で劣る毛利方は、陸上よりも援軍の来ない孤立した島で陶軍に奇襲をかけるほうが有利であると考え、厳島が戦場となることを想定した。なぜなら水軍を擁する陶軍は、安芸へ進軍する際に厳島を通るはずと考えたからだ。とは言え、絶対という保証はない。そこで元就は策を用いて、晴賢が厳島にやって来るように仕向けた。

 

 まずは厳島に宮尾城を築き、そこに元大内の家臣であった己斐(こい)・新里(にいざと)両氏を置き、晴賢の怒りを買うようにした。次いで家臣の桂元澄(かつら もとずみ)に、寝返りを申し出る偽の密書を送らせた。だめ押しに、元就は「厳島を攻められたら勝てない」と、不安にかられているという噂を流した。

 

 こうした元就の策は見事に功を奏し、2万の兵を率いて岩国城を出陣した晴賢は、500艘の軍船を用いて厳島を目指した。

 

 この当時、毛利氏直属の水軍であった川内衆の軍船はわずか5、60艘。隆景が継承した小早川家は6、70艘だったので、合わせても百数十艘にしかならなかった。そこで元就は、瀬戸内海の海賊であった村上氏に加勢を求めたのである。村上氏は能島、来島、因島をそれぞれ拠点とする三家があり、うち因島村上家は早くから毛利氏に服属していた。

 

 だが来島村上氏は伊予河野氏の重臣であったし、本家である能島村上氏も河野氏との関係が深く、因島とも婚姻関係にあったが、独立性が強い「海の戦国大名」であった。この二家は毛利氏に味方するとは限らない。実際、陶氏からも加勢を要請されていたようだ。

 

 そこで元就に命じられた隆景は、自前の水軍の将であった乃美(浦)宗勝(のみ むねかつ)を、村上氏の説得に赴かせた。宗勝は親しかった来島の頭領・村上通康(みちやす)に話を持ちかけた。通康は能島のトップである村上武吉の養父だった。通康は、刺し違えてでも毛利の味方に引き入れようとする、宗勝の気迫に負けてしまう。そして武吉も説得し、毛利軍への加勢が決まる。

 

 天文24年9月20日、晴賢は厳島神社の東側の塔ノ岡に陣を敷いた。毛利軍は24日になり、吉川元春を先鋒として出陣。元就は後から出陣し、27日に草津城に入城する。そして30日夜間に厳島へと向かった。闇夜と大潮を利用したのだが、さらに豪雨にも見舞われたため視界は悪く、艪を漕ぐ音も雨音にかき消された。こうして天にも味方され、敵に悟られずに島へ渡れた。陶軍の兵は風雨が強かったため、見張りを怠っていたのだ。

 

 開けて10月1日、毛利軍は元就を総大将として、毛利隆元・吉川元春の主力部隊と、小早川隆景が指揮する水軍部隊に分かれた。その際、小早川軍の一翼を担った村上海賊衆は、湊に繋留してあった陶軍の軍船の艫綱(ともづな)を切断。潮流に乗せ、船を沖に流してしまったのだ。

 

 夜が明けると同時に、毛利軍は一斉に攻撃を開始した。昨夜の豪雨に油断していた陶軍は、毛利軍の上陸にまったく気づかず、すぐに応戦することもできずにいた。しかも狭い島内では陣形を整えることもできない。

 

 晴賢は一度本拠地に引き上げ、再起を図ろうとしたが、湊にあるはずの船もなくなっていたため、成す術もなく自刃して果てた。

 

 厳島へ渡る日を、闇夜で潮の流れが最も速くなる晦日にすることや、陶軍の軍船の艫綱を切断して潮流に乗せ、沖へ流してしまうことを提案したのは、村上武吉であったという言い伝えがある。現代的な感覚、あるいは海を知らない人からすれば、なぜ闇夜や大潮がわかったのかと疑問に思うだろう。

 

 だが当時は太陰暦なので、晦日は新月である。干満の差が最大になる大潮は、満月と新月の頃に発生する。海で生きてきた海賊衆である村上氏にとって、これは常識である。

 

 まさに海という自然も、味方にすることができる。それが村上海賊衆の真骨頂であった。

うず潮が起こることで知られる鳴門海峡。干満の差がもっとも大きくなる満月や新月の大潮になると、まるで川のような流れが起こる。右に見える小型タンカーは流れに乗っていたため、高速船のような速さで通過していた。

 

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過去記事

野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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