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武田の軍師たち~駒井高白斎(こまいこうはくさい)と荻原常陸介(おぎわらひたちのすけ)

孫子の旗 信玄と武田軍団 第4回

山本勘助の登場以前、武田家に軍師がいた!

武田信玄は山本勘助をはじめ、多くの軍師をかかえた。彼らは合戦など軍事面の助言だけでなく、外交、行政、さらに城造りでも能力を発揮した。山本勘助像/山梨県立博物館蔵

 武田信玄の軍師といえば「山本勘助」の名前が上がる。だが、長い間この勘助は実在しなかったといわれてきた。その実在が証明されたのは、昭和44年(1969)のNHK大河ドラマ「天と地と」の放映がきっかけになった。北海道で発見された市川文書(信玄の手紙)が、勘助(手紙では管助)実在の決め手になった。では、勘助以前(以外)に武田家には「軍師」と呼ばれるような存在がいたのだろうか。それは、信虎・信玄という武将の耳目になり、あるいは手や足になって外交・内政・合戦に手腕を発揮した家臣の存在である。

 

 本来の軍師の定義は、勘助に代表されるような軍配者と呼ばれ兵法に則って合戦などを主導する人物をいうらしいが、実は軍師は軍配者以前に、呪術・天文・占星術・暦法に詳しい人物を言った。他にも、出陣の儀式・首実検の作法・勝ち鬨の上げ方なども軍師の仕事になっていた。こうした古い形の軍師から派生する形で参謀型・戦術戦略担当型・外交型・官僚型というようにいくつかのタイプが生まれてきた。勘助などは、築城術にも長けながら参謀型であり、戦術戦略型を兼ねた軍師であったとされる。

 

 武田信虎の時代から信玄の時代(勘助以前)に掛けては、駒井高白斎正武(こまいこうはくさいまさたけ)がいた。『妙法寺記』とともに戦国武田氏の時代研究には欠かせない第1級資料『高白斎記』の記録者としても知られる。高白斎が軍師であった一つの証拠は、有名な『甲州法度次第(信玄法度)』の草案者としても知られることである。また高白斎は、築城における「鍬立(着工式)」を仕切ってもいた。鍬立は軍師の重要な仕事であった。また合戦に当たっては(例えば信州・村上義清との戸石城合戦)、天文学を駆使して気象予報を行っている。さらに外交型軍師の典型として、今川義元・北条氏康・上杉憲政の覇権争いを信玄の命令によって講和させる役割をも担い、成功に導いている。高白斎の生没年は不明だが武田家滅亡後、その子孫は徳川家康に仕え1800石の旗本として続いた。

 

 高白斎の1時代前のことになるが、信虎に仕えて幼い信虎の甲斐統一を助けた軍師が、荻原常陸介昌勝(おぎわらひたちのすけまさかつ)である。当時の甲斐国は駿河・信濃・相模の3方に敵があった。永正18年(1521)、駿河・福島上総介正成を総大将とした1万5千が侵攻した。駿河勢は甲府近くにまで攻め込んだ。対して武田軍は3千。5倍もの敵を相手にしなければならない。

 

 軍師・荻原昌勝は「小良く大を制す」の策略を用意した。甲府の中心・一条小山に旗指物(はたさしもの)を集めてここに武田軍が終結しているように見せ掛け、地の利を得ている武田軍をあちこちに伏せさせた。昌勝の戦法は「合図の拠旗」である。昔、昌勝が紀州の海岸で出漁する船団50隻ほどが海岸の見張り小屋からの大旗の合図によって魚の大群を追うのを見たことからヒントを得た戦法であった。甲斐の山河を海に見立てて様々に工夫を凝らしたものである。これを上条河原合戦という。この勝利の前後に信玄は誕生したことから「勝千代」と名付けられたという伝説まで生まれた勝利であった。軍師・荻原昌勝は、信虎の合戦を全て勝利に導き、さらには信玄の非凡さを見抜き「将来、大をなすだろう」と予言している。

 

 なお、この昌勝の数代後の子孫が元禄時代(5代将軍・綱吉)の勘定奉行(事実誤認されているが貨幣改鋳で悪名高い)荻原重秀である。

 

 この他、軍師に近い参謀としての役割を果たしたのが、信玄の傅人・板垣信方(いたがきのぶかた)や、武田4名臣の1人・馬場信房(信春)、信玄の弟・信繁などであったとされる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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