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本来の武田家惣領・義信の不運

孫子の旗 信玄と武田軍団 第3回

武田家の期待を一身に受け合戦でも活躍

川中島合戦の中でも最大の激戦となった第4回川中島合戦。この戦いでは武田義信も奮戦し、怒涛の攻撃を仕掛ける上杉軍の防戦に努めた。『川中島合戦図屏風』ミュージアム中仙道蔵

 「武田三代」という時に、武田信虎・信玄・勝頼の3人が挙げられる。だが、本来は勝頼ではなく、義信こそ武田三代の1人であるはずだった。かなりの歴史好きでも武田義信がどのような人物で、武田家における立場はどうであったか、などを知る人は少ない。あまり語られない義信像だが、実は家臣団にとっては将来を嘱望された存在であった。

 

 義信は、天文7年(1538)に信玄(晴信)の嫡男として誕生した。母は、右大臣三条公頼の娘・三条夫人である。そうした家柄も加わってか、家臣団・家中からは御曹子としての敬愛を受けて育った。

 

 傅役(もりやく)は老臣・飫富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶのしょうとらまさ)、乳人は曽根周防、小姓は長坂源五郎。いずれも後の「義信事件」ではその責めを負って斬罪に問われる人物ばかりである。ということは、それだけ義信に家臣団からの人望があったという証拠ではあろう。 

 

 幼名・太郎は13歳で元服した。この時期には背丈も父・信玄に近くなっており、偉丈夫という言葉通りの成長を見せていた。足利将軍家から「義」の字を貰い、義信と改名した。義信は駿河・今川義元の娘を娶った。妻は義信には従妹に当たる。

 

 3年後には具足着始めの儀を行い、義信は正式に武田の1武将となった。家臣には雨宮十兵衛家次ほか80騎の同心・被官を与えられた。傅役の飫富虎昌は300騎を預かる侍大将であるから、義信は武田家筆頭ともいえる立場になったことになる。晴れがましい武者姿の義信の前途は洋々として家臣団には見えた。

 

 その初陣は、天文23年(1554)9月、信州・下伊那攻略戦である。義信は小山田備中守昌辰(郡内の小山田とは別系統)とともに佐久郡の上杉謙信系の国人を攻め立て、1日に9つの城を攻め落とした。信玄の期待に応えた初陣の初手柄であった。さらに小諸城攻防戦では、300余人を討ち取り、最後まで抵抗した数人の国人を投降させた。

 

 義信は頭脳明敏・人柄も良く家中の衆望を担う存在になっていく。剛毅な性格もあって合戦では率先して大いに働いた。永禄4年(1561)9月の第4回川中島合戦では、信玄の本陣近くに陣取ったが、迫り来る上杉軍の勢いに抗して縦横無尽に動いた。「動くな」という信玄の命令を無視しての奮戦であった。

 

 広瀬の渡し方面が危ないと見て取った義信は、手兵500を率い援軍に向かったが、越後勢に包囲されて自身も手傷を負ってしまう。信玄が義信の救援に内藤・浅利・原の諸隊を差し向けたために義信は救われたが、逆に本陣は手薄になった。謙信が信玄本陣に掛け入って斬り付けたという伝説は、この時のものである。その後、信玄が八幡原の本陣を撤収するに当たり負傷した義信を残して先に発ったことで、父子の確執の芽が生まれたともいう。

 

 この前年5月、駿河の今川義元は桶狭間合戦で新興の織田信長に討ち取られ、その後を嫡男・氏真(信玄にとっては甥・義信にとっては従兄弟であり、妻の兄)が継いだが国を保つ器量がない、として信玄は駿河侵攻を画策した。「このまま放っておけば、駿河は北条と徳川に分割されてしまう」というのが信玄の言い分であった。これに義信は反対した。「兵を貸し与えて、氏真を援助してこその武田家ではないか」というのである。

 

 こうして確執が形になって現れ、ついに義信は信玄追放を画策した。父が祖父・信虎を駿河に追放した事件に倣ったのだったが、これは事前に信玄に漏れて、義信は逮捕され飫富虎昌ら側近は斬罪された。義信は、永禄10年(1567)10月19日に自刃(病死とも)。30歳であった。こうして、武田家惣領の座は伊那(諏訪)勝頼に転がり込んだのである。 

 

 信玄は嫡男・義信の死を悲しみ、悼んだ。直後に生まれた勝頼の長男に「信勝」と名付け、死に臨み「信勝に武田家を与える」と遺言したのは、信玄が信勝を義信の生まれ変わりと信じていたからではなかったか。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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