武田軍団の鉄砲仕入れを行った軍師・山本勘助晴幸
孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第3回
諸国流浪で築き上げた情報網と人脈を持つ築城の名手

武田信玄の側近のひとりとして活躍。出自や事績をふくめ謎が多く、一部では架空の人物説も存在した。『市河家文書』などの史料にその名が残ることから、現在では実在説が主流となる。「紙本著色武田二十四将図」(部分)/山梨県立博物館蔵
山本勘助(やまもとかんすけ)といえば、信玄の軍師であり、築城の名手であったという印象が強い。だが勘助には信玄に仕える前に諸国を流浪していた時期があって、それが勘助をして全国の情報に明るい理由であったと思われる。こうした情報網や築いてきた人間関係を通じて、信玄のために多くの有効な手立てを講じている。
同時に、信玄に仕えることによって勘助は、甲斐源氏の御曹子という立場の信玄から多くを学んだ。それは浪人暮らしの長かった勘助にとって安住の地を得た安堵感ではなく、戦国という時代に「ともに生きるに値する主君」との出会いであった。自分の持っている能力を全て提供する代わりに、信玄からは教えられることをすべて吸収しようと試みた。二人の年齢差は21歳あったが(もちろん勘助が21歳年長)、時には勘助が信玄の師であり、時には信玄が勘助の師となった。
勘助の生まれは明応9年(1500)8月、三河・賀茂村(豊橋市賀茂町)とされる。25歳で紀州高野山に上り、摩利支天堂(まりしてんどう)に参籠(さんろう)し、以後諸国を巡り歩いた。その旅は、四国・山陽・山陰・九州・大坂・京都・堺など広範囲に渡る。一時は毛利や尼子の家臣になったともされる(真偽は不明)。信玄には、天文11年(1543)か12年と推定される。
勘助は、諏訪攻めの功で禄高(ろくだか)100貫・従卒25人の足軽大将となったが、様々な功を経て後には、500貫の侍大将に昇進した。
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戦国時代の合戦で、初めて鉄砲を使ったのは信玄率いる武田軍であった。弘治元年(1555)7月の第2回川中島合戦である。信州・川中島と犀川(さいがわ)を挟んで上杉謙信(当時、長尾景虎)の越軍との戦いで、武田軍は鉄砲300挺(弓800張も使っているが)で越後方の旭山城を攻撃している(『妙法寺記』)。この時、謙信(景虎)は全く未知の鉄砲という武器に度肝を抜かれたという。この後、謙信も鉄砲を入手して合戦に使うようになったという。
日本に初めて鉄砲が上陸したのは天文12年(1543)8月、種子島に上陸したポルトガル商人と明国人通訳僧・王直(おうちょく)らが、島の主・種子島時尭(たねがしまときたか)にポルトガル製の鉄砲2挺を献上したのが始まりと伝えられる。
いち早く国産の鉄砲(「種子島」といった)の製造に成功したのは北九州・平戸の松浦隆信(まつらたかのぶ)で、天文18年(1549)のことである。
この頃より、戦国時代の日本で鉄砲の需要が高まるのを予測した明国僧・王直やポルトガル人たちは、鉄砲・火薬・弾丸などを日本に持ち込もうとしていた。
情報通の勘助は、こうした事情を知り、さらに弓矢よりも数十倍の威力を発揮する鉄砲に注目した。信玄に鉄砲の購入を具申すると、新しい武器と知って信玄はその入手を勘助に命じたのだった。
勘助は、手下の忍び(甲斐では透波[すっぱ]という)を長崎の平戸に急がせた。すべて勘助の手配済みであったから勘助の手の者は、簡単に王直に面会し、ポルトガル船を関門海峡・紀伊水道を経て駿河湾に案内した。駿河湾は、信玄と友好関係にあった今川義元の支配にあった。鉄砲関係一切を積んだ船は興津(おきつ)港(清水港)に入った。信玄の命令で待っていた小荷駄(こにだ)隊が荷揚げして、そのまま甲府に運んだ。こうして信玄は、勘助のお陰で、早い時期に300挺という鉄砲と火薬・弾丸の買い付けに成功した。この値段は相当なもの(一挺千両という値段だと書くのが『鉄炮記』である)で、信玄は甲州金山から出た金塊を使ったものと思われる。(この時、ポルトガル商人は、信玄にワインその他、ヨーロッパの産物・文物を献上したというから、日本で最初にワインを飲んだ武将は信玄であった可能性も高い)。しかし鉄砲の威力を最大限に使ったのは皮肉なことに、信玄ではなく信長であった。