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デキる男はなぜ凡庸な将軍と呼ばれたのか? ~ 12代将軍・徳川家慶 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第13回 

44歳の高齢で将軍の位に就いた“そうせい様”

家慶の一般的な評価は、何もなしえていない凡庸な将軍だ。だが、天保の改革に失敗した水野忠邦の罷免、後の老中・阿部正弘の抜擢など、要所で優れて政治的決断を下している。イラスト/さとうただし

 家慶(いえよし)は、寛政5年(1793)絶倫男であった12代将軍の父・家斉の第四子に生まれ、本来なら大名家に養子に出される運命だったが、家斉の嫡男・竹千代が病死したことから、急遽嗣子ということになった。将軍位に就いたのは天保7年(1836)9月、既に44歳になっていた高齢将軍であった。それでも父・家斉は「大御所」として実権を放さず、当初家慶は名ばかりの将軍でもあった。そのためもあってか、老中が伺いを立てると「そうせい」と答えるだけであって、陰では「上様」ではなく「そうせい様」と呼ばれていた。

 

 だが、天保12年に大御所・家斉が病没すると、老中・大奥を含め前政権の勢力一掃を企図。新しい老中首座に、水野越前守忠邦を据えた。ここから実質的な「天保の改革」が始まったといえる。これは、大御所・家斉の放漫政策による幕府の大赤字の解消も目的であった。つまり、この時期の徳川家の台所は火の車を通り越し、破産寸前にあった。

 

 水野は、物価高を押さえるために倹約令を公布し、他にも庶民の楽しみであった岡場所の禁止・好色絵本類の刊行禁止などの措置を取った。水野は改革の実を上げるために、鳥居耀蔵(とりいようぞう)を目付に起用(後に南町奉行)、北町奉行・遠山金四郎景元にも協力させた。特に、小普請(こぶしん)奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)、勘定奉行・岡本正成、代官・江川太郎左衛門英龍ら開明派の人材を使ってその手腕を発揮させた。

 

 しかし、抜擢した鳥居が水野を裏切り、改革はこれをきっかけにして失敗に帰す。鳥居は水野には「獅子身中の虫」であった。水野は一時失脚する。なお、蛇蝎(だかつ)の如く嫌われ抜いたものの権力を背景に過酷な取締りを続けた鳥居も失脚し四国・丸亀に幽閉されたが23年後に釈放され、明治6年まで78歳の長命を生きた。「悪い奴ほどよく眠る」を地で行くような生涯であった。

 

 この時期の外国ではイギリスによる清国のアヘン戦争があり、フランス、オランダなどが日本に対して開国・通商要求を行うなど海外との外交が急務になっていた。家慶を最も驚愕させたのは、嘉永6年(1853)6月のペリー・マシュー率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀出現であった。この黒船騒ぎに対して家慶は、水戸斉昭(なりあき)に収拾を依頼した。だが、幕閣ばかりか国内にも「攘夷」を叫ぶ者も出て、世情は混沌としてきた。いずれにしてもペリーには来年の回答を約束、黒船は去った。

 

 この黒船騒ぎが一段落した6月16日、家慶は発病した。精神的にも苦しめられたせいであった。奥医師らが懸命に手当てしたが、6日後の22日に死去。61歳であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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