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病弱な将軍はなぜ安政の大獄を招いたのか? ~ 13代将軍・徳川家定 ~


2008年に大河ドラマの主人公となった篤姫の夫として知られるようになった13代徳川将軍・家定。黒船来航時の将軍でもあった家定は周りに振り回されながら、病弱な身体とも戦った将軍である。内政混乱に外患など、幾多の困難に巻き込まれながら将軍を勤めあげた徳川家定の人生を紹介する。


ペリー来航に始まり外交に頭を悩ませた篤姫の夫

将軍継嗣問題、ペリー来航にまつわる外交問題など、家定の周囲は常に問題が山積。老中・阿部正弘らをブレーンにその解決に奔走した。イラスト/さとうただし

 家定の父・家慶もその父譲りの絶倫のことであったらしい。家斉には敵わないまでも、死亡する1年前、60歳の時までに29人の子どもを作っている。だが家慶は子福者とはいえず、そのほとんどが夭折(ようせつ)し、10歳以上まで生きたのは、四男・家定と、一橋家に養子に入った慶昌(よしまさ)だけであり、その慶昌も僅か13歳で病没している。ゆえに、家慶の血筋は家定にしか残されなかった。家定は、文政7年(1824)生まれ。五歳で元服した。正室に迎えた公家の娘とは2度死別し、3度目に迎えたのが薩摩の島津斉彬(なりあきら)の養女・篤姫(あつひめ)、後の天璋院(てんしょういん)である。

 

 家定は、嘉永6年(1853)に父・家慶の没後、13代将軍位を継いだ。30歳であった。その直前の6月、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、幕府に対して開国を要求した。まさに家定の将軍位継承は、このペリー来航という日本史における画期的な事件とともに開始されたのであった。

 

 家定は多病質であり、天然痘で顔全体にその跡が残っていたことから人に会うのを嫌がった。自然に陰気な性格が形成されたようである。ペリーは安政元年(1854)1月にも再来航して、幕府はとうとう日米和親条約を結んだ。これが、日本国内の「尊王攘夷」という動き・思想に結び付く。続いて、幕府は日英・日露和親条約も結び、攘夷派にとってはなし崩し的に幕府が「外国勢力」を受け入れたと受け取った。というのも、翌年には日仏・日蘭和親条約の成立になるからであった。この直後に家定は、島津斉彬の養女・篤姫と結婚する。だが、集成二人の間に子どもは生まれなかった。

 

 家定の養子(世嗣であり、次期将軍候補)として、水戸家・徳川斉昭の七男で英名さを買われた一橋家に養子に行っていた慶喜を推薦する声が高かったが、同時に反対派からは同じ御三家のうち、家定の従弟にも当たる紀州・徳川慶福(よしとみ)を推す声もあった。

 

 両派は「一橋派」「南紀派」と呼ばれた。阿部正弘は、人材登用を含め、幕政改革や世嗣選定などに積極的に当たった。この中枢的存在であった阿部は過労がたたり、急死した。

 

 阿部の死によって幕府は大きく揺れる。大老に任命された井伊直弼(なおすけ)は、朝廷の許しを得ることなく日米修好通商条約を批准する。世情が騒がしくなる最中の安政5年(1858)8月、家定が脚気を悪化させて死亡する。35歳であった。将軍としての家定は、ただただ外国との開国に心を悩ませただけの治世であったといえよう。

 

 井伊大老は、家定没の直前に世嗣を、紀州・徳川慶福に決定していた。そして9月には「安政の大獄」が始まる。それは、世嗣候補であった一橋慶喜を擁立した「南紀派」の水戸斉昭・尾張慶恕(よしくみ)・松平慶永(よしなが)らを隠居・謹慎させることから始まる事件の開始といえた。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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