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8人目の七本槍! 福島正則、加藤清正を超えた武勇の男とは? 〜石河兵助一光〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝(番外編) 〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第11回

秀吉にも認められた七本槍の“真”の一番手

 

戦いの直前、七本槍のひとり加藤嘉明に兜を預けたが拒まれ、これに失望し兜をつけず合戦に臨み、戦死したと伝わる。失望した理由は、男色説、武士としてのプライド失墜説など様々。 イラスト/さとうただし

 

 主君・織田信長が本能寺で討たれ、その仇ともいえる明智光秀を山崎合戦で破り、その後に織田家の跡目をどうするかの「清洲会議」では、信長の嫡孫(ちゃくそん)・三法師(後の織田秀信)を推戴(すいたい)してイニシアティブを握った秀吉だったが、実は自分と生死を共にするほどの「子飼い」の家臣団がなかった秀吉。いよいよ天下取りに駒を進めるに際してその地盤固めには、家臣団に豪傑・勇将・猛将が欲しかったことから、柴田勝家との決戦ともいえる「賤ヶ岳合戦」では、そうした武将を創り出す必要があった。それが「賤ヶ岳の七本槍」という形になったが、秀吉が武功を上げた若手の武将たちに出した感状(表彰状)は9通あった。前述したが、賤ヶ岳七本槍は本当は9本槍であったのだが、何故7本(7人)になったのか。

 

 石河(いしこ)兵助は、漏れてしまった9本槍の1人である。兵助は、美濃国の国人の1人・石河光重という武士の三男として生まれている。通称を兵助といい元服後に貞友、さらに一光と名を改めている。実は兵助は、福島正則加藤清正に負けず劣らず、早い時期(藤吉郎時代)からの秀吉の子飼いであった。それも、長兄・次兄・四弟まで含めて4人兄弟すべてが、秀吉の馬廻衆として仕えたのだった。

 

 賤ヶ岳合戦の前夜、兵助は秀吉から旗奉行を命じられていた。自分が選ばれなかった福島市松(正則)は、それを嫉妬して「旗奉行などでは、戦場では槍働きできない。せいぜい旗を振って頑張ればよい。兵助には相応しい役目だ」と放言した。これを聞いて兵助は怒り出し刀に手を掛けたが、加藤虎之助(清正)が、間に入って取りなした。兵助は「俺には俺の決意がある。明日の俺を見ていろ!」とある思いを秘めて怒鳴った。

 

 翌日の決戦場で兵助は、その秘めた思い・一番槍の手柄を立てようという勇気を示す証拠に兜を被らず真っ先を駆けた。兵助が暴れ回るところ、柴田勢からは死傷者が出た。そんな兵助を止めたのが、柴田方の勇者・拝郷五左衛門久盈(ひさみつ)であった。兵助は「よき相手なり」とばかり、拝郷に槍で突き掛かった。拝郷も槍で受けてさらに兵助の顔を目掛けて突いて出た。その槍の穂先が兵助の左目に当たり、兵助は思わず仰け反った。

 

 拝郷は、兵助を仕留めようと馬乗りになる。兵助の片目は潰れ、顔中が血で濡れ、両眼とも見えない。首を掻かれる寸前に、市松(正則)が飛び込んできて兵助を救った。拝郷は、兵助の首を取れないままその場を引き上げたが、兵助との死闘で疲れ切っていた。一休みしたところに市松が名乗りを上げて戦いに持ち込み、拝郷を倒した。

 

「兵助の敵討ち」との思いが市松にはあった。前夜の諍(いさか)いが、市松には苦いものとして残っていたからだった。兵助は、この傷が元で事切れた。討ち死にした兵助を秀吉は悼んだ。そして「その手柄は一番槍に値する」として武功を上げた9人のうちに入れ、代理として弟・長松(石河一宗)に感状と知行1千石を与えた。

 

 江戸時代になってから、兵学者・山鹿素行は「福島よりも石河こそ七本槍の一番手」と評価したという話も伝えられているそうだ。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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