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牛馬の仲買人だった加藤嘉明は、なぜ水軍の将になれたのか? 〜加藤左馬助嘉明〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第10回

四国征伐で長宗我部軍を破り、その後も水軍の将として功績を上げる

牛馬の商人から武士になり、順風満帆な出世。最終的には50万石領主となる加藤嘉明の事績を辿った時、豊臣秀吉に似た世渡り上手な人物が推察される。イラスト/さとうただし

 加藤嘉明の父・三之丞は、三河国・徳川家に仕えていた。家康が松平元康と名乗っていた時代(人質として駿府の今川家で暮らしていた頃)を経て、今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討ち取られると、家康も独立を果たした。その後の永禄6年(1563)9月、三河に一向一揆が起きて、当時22歳であった家康は、家臣団までがこの一揆に加わったために苦労した。

 

 三之丞も宗門の掟に従って、一向一揆に加わり主君である家康に敵対した。この時、一揆には後に家康の謀将になる本多正信もいた。結果として三之城は、三河から近江まで逃げた。この近江に逃げた三之丞から、同じ年に嘉明は生まれている。幼名を「孫六(まごろく)」というが、いわば牢人の子どもとしての誕生であった。

 

 孫六(嘉明)が、馬喰(牛や馬などの仲買商人)上がり、といわれるのは、12歳の時には近江・長浜で牛や馬を売ったり買ったりする商売を手伝っていたからだ、とされる。15歳になっても馬喰であって、岐阜に馬を売りに行った際に羽柴秀吉の家臣・加藤景泰(かげやす)に武士としての素質を見出され、その推挙によって長浜城主になっていた秀吉に仕えるようになった。景泰と嘉明の父・三之丞は祖先が同じ「藤原利仁」であって遠縁に当たった。

 

 その頃、秀吉は信長の四男を養子にしていた。名前は、6歳の時に早世した自分の子どもと同じ「秀勝」と名乗らせていた。嘉明は、この秀勝の小姓になったが、どうにも嫌で堪らなく、天正5年(1577)、播磨に出陣していた秀吉のもとを訪れると、直談判をした。秀吉の配下として侍働きをしたい、というのであった。秀吉は怒りもせずに「そのくらいの元気があれば、さぞかし立派な戦さ働きをするだろう」と、陣中にとどめおき、300石の食録を与えた。

 

 天正6年の播磨・三木城攻めには、早速首2つを獲り200石を与えられ、山城国相楽郡で500石の武士になった。天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦で、嘉明は21歳。福島正則・加藤清正らに遅れじと、得意の槍を振るって縦横無尽の働きをした。この武功が7本槍の一人とされて、合わせて3500石の侍大将に抜擢されたのであった。

 

 嘉明の水軍との縁は、天正13年5月の四国征伐の折に船を駆って土佐に攻め入って長宗我部軍を打ち破る働きをしてからであった。天正14年(1586)11月、嘉明は淡路国の2郡で1万5千石を与えられ、志知(しち)城主になった。24歳の大名であった。後には、脇坂安治・九鬼嘉明らとともに水軍の将となって幾多の合戦に臨んだ。こうした功によって文禄3年(1594)2月には6万2千石に、さらに慶長3年(1597)には伊予国のうち3万7千石を加増され10万石の大名になる。ここまでが秀吉との縁であった。

 

 秀吉没後の関ヶ原合戦で嘉明は東軍に属して戦い、戦後には伊予20万石と所領は倍増し、松山城を築城する。さらに、豊臣家滅亡後には、会津48万石の大名になる。だが治績についてはあまり知られていない。寛永8年(1631)9月、69歳で病死。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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