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尾張出身の平野長泰(ひらのながやす)は、なぜ同郷・秀吉の評価が低かったのか? 〜平野遠江守長泰〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第9回

秀吉との折り合いの悪さが出世を妨げた?

秀吉の評価が低かったとされる平野長泰だが、異説もあり小牧・長久手の戦いの奮闘など秀吉が称賛。後に豊臣姓を下賜されたとも。「太平記英勇伝七十一 平野権平長康」

 福島正則・加藤清正などスタークラスの武将に比べるべくもなく、もっと格下と思われる様々な武将の名前を念頭に思い浮かべても、平野長泰という名前は出てこない。それどころか、この長泰が秀吉に褒賞された賤ヶ岳7本槍の一人であった、とは信じられないほど知名度に乏しい人物である。

 

 とはいえ、7本槍として活躍したことだけは確かなようで、それなりの所領も与えられてはいる。

 

 平野氏は、鎌倉期・北条時政の流れになる横井氏が、尾張国海東郡赤目城に移り住み、時政から14代目に当たる横井宗長の時に、宗長の姉の夫であった人物が平野村を所領として与えられて「平野業忠」を名乗ったのが、始まりであったという。業忠は尾張国津島に住んだが、その子孫・平野賢長は織田信長によって所領を失い、加賀に逃げたり、小田原の北条氏に仕官したりしながら放浪した。そして再び尾張津島に戻った賢長は、船橋家から養子を得た。その養子が、長泰の父・長治であった。長治は、最初は信長に仕え、次いで秀吉に仕えた。ただ、長泰については生年や生まれた場所、秀吉に仕えるまでの経過などが詳細に伝わっていない。ただ、いくつかの資料によれば賤ヶ岳合戦の時に21歳であったという。

 

 また長泰が秀吉に仕えたのは、天正7年(1579)とされる。恐らく秀吉が中国地方の平定に向かう頃のことであろう。秀吉は播磨国周辺にいた。この時点で、長泰は剛勇の戦士として知られていた。

 

 賤ヶ岳合戦の天正11年(1583)、長泰は秀吉の供回りとして本陣近くにいた。いざ合戦が始まると、長泰は弟・長重や石河(いしこ)兵助らと共に先駈けた。柴田勢(司令官・佐久間盛政)は、前田利家の裏切りともいえる総退却を受けて総崩れになりつつあった。長泰はこの追撃戦を暴れまくった。雑兵ばかりを手に掛けたが、兜首狙いの長泰が見つけたのは、柴田勢の武将・佐久間政頼であった。何度か槍を合わせ、追い詰めたが、政頼の家臣に遮られ逃がしてしまった。次に狙ったのが柴田家の旗奉行・小原新七であった。長泰は、今度こそ、とばかり槍を縦横に振るう。そこに松村友十郎という柴田勢の一人が新七を救うために横槍を入れた。長泰は、二人を相手に戦い、先ず新七を突き殺し、次いで逃げようとする村松の背中を槍で刺し貫いた。

 

 この手柄が、賤ヶ岳7本槍という褒賞になった。長泰は、近江・河内両国のうち3千石の所領を与えられ、さらに翌年の徳川家康との合戦、小牧・長久手の戦いでも活躍し、2千石を加増され、大和国田原本で5千石を領した。

 

 だが、長泰の出世はここまでだった。実は秀吉とはかなり折り合いが悪かったためだという。相性が合わなかったのであろう。

 

 関ヶ原合戦では東軍に属したが、目立った武功は挙げず、5千石(駿河国安西に移封)のまま過ごし、寛永5年(1628)、70歳の天寿を全うした。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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