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七本槍の多くが「東軍」に属する中、糟屋武則は、なぜ「西軍」に属したのか? 〜糟屋助右衛門武則〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第8回

賤ヶ岳合戦では4番手の手柄を立てたが関ヶ原合戦後の動向は謎のまま…

七本槍の中でも最も謎多き武将の糟屋武則。関ヶ原合戦で敗れた西軍に属したため、その出自から子孫の動向まで、わずかな記録しか残されていない。「太平記英勇伝五十八 糟屋内膳正武則」

 慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦が起きる。東軍(徳川陣営)と西軍(反徳川陣営)にすべての武将たちが分かれて戦った「天下分け目の戦い」である。この合戦では、「賤ヶ岳の7本槍」と呼ばれ喧伝された武将・大名7人は、それぞれに動いた。

 

 加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰は最初から東軍に属し、脇坂安治は最初こそ西軍に属しながら、途中から(小早川秀秋の東軍への寝返りをきっかけに)東軍に鞍替えした。片桐且元は、豊臣秀頼の傅役(もりやく)ということで、大坂城から動かなかったが、一人だけ糟屋助右衛門尉武則は、西軍として戦った。

 

 合戦が東軍の勝敗で終わったことからであろうか、敗軍の一人・糟屋武則(かすやたけのり)の事績などはほとんど後生に伝わることはなかった。従って、武則の生年も出生地も定かではない。ただ、糟屋氏というのは、相模国大住郡糟屋庄(神奈川県厚木市)の出身らしい。だが糟屋武則は、現在の兵庫県加古川市辺りの出身だという。というのも、織田信長から中国・毛利攻めの総大将を命じられた羽柴秀吉が、天正6年(1578)2月に諸将を集めて軍議を開いた場所が『信長公記』によれば、この時点ではまだ秀吉軍に属していた別所氏に属した加古川城(城将・糟屋武則)であった。

 

 この軍議で、別所氏と秀吉とは訣別し、結果として秀吉は別所長治の本拠・三木城を攻撃することになる。この時に、武則はそのまま秀吉の陣営に留まった。諸説ある中で、武則が秀吉に仕えるようになったのは、この年(天正6年)のことで秀吉の軍師・黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)の仲介があったという。

 

 三木城攻めでは、武則の縁者は当然のことながら別所長治とともに秀吉勢と戦った。中でも武則の姉は、長治の叔父・別所吉親の妻(名前は不明・年齢は28歳とされる)であった。だが、女武者として知られ、この合戦では何度も城から打って出て、獅子奮迅の戦いぶりを見せたという。秀吉軍団の勇士・篠原源八郎など何人かが、この武則の姉・女武者に首を取られている。三木城が「干殺し(ひごろし)」と呼ばれる兵糧攻めによって落城すると同時に別所氏は一族諸ともに自刃した。武則の姉もわが子二人を道連れに自刃して果てた。

 

『絵本太閤記』によれば、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦で武則は、福島正則・加藤清正・脇坂安治に次ぐ4番手の手柄を立てている。柴田方(佐久間盛政陣営)の剛将・宿屋七左衛門という武将と槍を合わせ、これを討ち取った。合戦の最中、秀吉の小姓(こしょう)衆であった桜井佐吉が七左衛門と戦っていたのだが、佐吉の形勢が危うくなり、討ち取られそうになったのを、武則が駆け付けて救援した。武則の槍の強さは、七左衛門をたじろがせ、怯んだところをひと突きに胸板を突き刺して討ち取った。

 

 これら奮戦ぶりが認められ、7本槍の一人として褒賞されたのであった。後に一万3千石の大名として遇される。

 

 だが、関ヶ原合戦で豊臣恩顧を念頭に西軍について敗れたことから、武則は所領のすべてを失った。武則がその後、どう生きたか、どう死んだか、については不明のままである。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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