×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
通販

もしも明智光秀が信長の死を確信でき、秀吉を打ち倒していたら天下はどうなったのか?

戦国武将の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?


歴史の「もしも」を考えると夢は膨らむ。日本史における契機となった戦いの勝敗が反転していたら、もし家康ではなく明智光秀が天下を獲っていたら、などを考えると胸躍る──。ここではもし本能寺の変の後、信長が首を晒され、信長の死を証明することができた後、明智光秀が迎え撃った秀吉を倒すことに成功していたら、天下はどうなっていたのか? を考察。さらにその後の光秀のヴィジョンはどう実現されていったのか? 謀反を起こした男の苦難なども含めIfの世界を解説する。


 

明智光秀が秀吉に勝ったのちの世界──
織田・羽柴の残党と激突した光秀の賤ケ岳

 

賤ケ岳の戦い古戦場古戦場(滋賀県長浜市)に立つ柴田勝家の銅像。合戦に敗れ、力尽きている様子を再現した像で、賤ケ岳山頂で立つ。

 

 明智光秀は本能寺にて織田信長の首をあげ、中国地方から駆けつけた羽柴秀吉を打ち倒した。本能寺の変から秀吉と戦った山崎の戦いにいたる一連の出来事は京の都を震撼させただけでなく、祇園祭(ぎおんまつり)も延期させた。町々に組み上げられ曳き初めまで為されていた山鉾(やまぼこ)はいったん解体され、来る秋を待った。その疫病退散を祈念した豪華絢爛なる祭礼が催行された日、詔書(しょうしょ)[天皇の意思表示の公文書]が下された。近衛前久(このえさきひさ)の裏工作によるものだったが異論は出ず、光秀は正式に管領(かんれい)に任じられた。

 

 異例のことである。というのも、管領には三職と呼ばれる斯波(しば)、細川、畠山の3家の者しかなれない。明智家の本家は土岐(とき)家とされているから、土岐を襲名すれば七頭と呼ばれる有力諸侯のひとつに挙げられるかもしれないが、そもそも嫡流(ちゃくりゅう)でないどこの馬の骨とも知れぬ者が当主となれるはずもない。ところが、天正10年10月、唐突に綸旨(りんじ)は下った。

 

 実際、管領職は細川氏綱(うじつな)が他界した永禄6年以後廃絶したとされている。光秀の就任は、伝統も格式もなにもかも覆した奇蹟としかおもわれなかった。そのため、特別に執権(しっけん)と呼称された。もともと鎌倉幕府の職名であるが、室町幕府となってからも管領職がそう呼ばれたこともあり、問題はなかった。光秀は足利義昭(あしかがよしあき)を補佐する形で天下の政(まつりごと)を受け持った。

 

 こうした事態に烈火のごとく憤ったのが、信長の遺臣にして越前国に手勢を展開していた柴田勝家(しばたかついえ)である。北ノ庄城を本拠地とする勝家には佐久間盛政(さくまもりまさ)、前田利家(まえだとしいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)、金森長近(かなもりながちか)、不破勝光(ふわなおみつ)といった武将が与力していたが、ここへ織田信孝(おだのぶたか)をはじめとする秀吉方の残党が逃げ込んだ。山崎の戦いから命からがら落ち延びてきたものだったが、勝家は「よくぞ、参られた」と信孝を出迎え、丹羽長秀(にわながひで)、羽柴秀長(はしばひでなが)、黒田官兵衛(くろだかんべえ)、山内一豊(やまのうちかずとよ)、仙石秀久(せんごくひでひさ)、中村一氏(なかむらかずうじ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、神子田正治(みこだまさはる)、石田三成(いしだみつなり)、大谷吉継(おおたによしつぐ)といった諸将をねぎらった。

 

 勝家は、信長と秀吉の仇討に燃え、雪が溶けるのを待って出陣した。天正11年も立春のことである。気合充分に先遣したのは一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)、脇坂安治(わきさかやすはる)、片桐且元(かたぎりかつもと)、平野長泰(ひらのながやす)、福島正則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、糟屋武則(かすやたけのり)、加藤嘉明(かとうよしあきら)らで、かれらは桑山重晴と浅野弥兵衛が守っていた賤ヶ岳砦に入るや陣容を整え、砂塵を巻き上げて長浜城まで急行し、最前線の本陣とした。

 

 こうした織田家の残党の動きに対して、足利幕府としては鎮圧の兵を挙げねばならない。織田方の挙兵は明らかな叛乱であり、かれらが叛旗(はんき)を下ろさぬ以上、徹底して殲滅する必要があった。そうでなければ、かれらはいつまでも「織田の時代が続いている」という幻想を抱いてしまうだろう。光秀は軍馬を率いて安土城に入り、天正11年3月、本陣を構えた。従えた守将は明智左馬助、明智長閒斎(ちょうけんさい)、斎藤利三(としみつ)などであったが、かれらはときおり打ち出しては長浜城の敵勢を牽制するだけでなかなか雌雄を決しようとはしなかった。

 

 相手を小馬鹿にしたようなそのあしらいに、長浜城の連中は業を煮やした。かれらの多くが若輩だっただけにその腸の煮えくりかえりようは凄まじく、視察にきた羽柴秀長、黒田官兵衛、山内一豊、石田三成、大谷吉継らの制止を振り切って出撃し、湖畔を驀進した。こうなると諫め切れなかった秀長らも参陣するほかなく、かくして安土城の一大攻防戦が始まった。秀長らが不審におもったのは守勢方が恐ろしいほど粘り強いことだった。びくともしない。それもそのはずで、光秀方には強靭な者どもが助勢していた。高野山から遣わされてきた人々である。僧侶の南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべせん)を大将、同じく花王院快応と地侍の橋口隼人を副将とし、光秀の手勢に倍するほどの兵数でもって安土城を守り切った。それはちょうど、信長が高野攻めを行った際に生じた高野七口を塞いだ7つ砦の戦いを髣髴させた。さらに、この守勢を支援するべく、駈けつけてきた一勢がある。草を薙ぎ、大地を割るようにして押し寄せたのは、信長と和睦して紀伊国鷺森別院へ退去させられていた顕如ひきいる本願寺門徒すなわち一向衆だった。安土城を守り切れないはずがない。

 

 しかし、明智勢の本当の本軍は、細川藤孝(ほそかわふじたか)を筆頭とする幕府軍で、可児才蔵(かにさいぞう)、一色義定(いっしきみつのぶ)、中川清秀(なかがわきよひで)、高山右近(たかやまうこん)、伊勢貞興(いせさだおき)、諏訪盛直(すわもりなお)、御牧兼顕(みまきかねあき)、津田信澄(つだのぶずみ)が従っていた。かれらだけではない。軍馬の一部には徒立ちの、それも袈裟を纏った者どもがいる。安土城の戦いと同じく僧兵である。延暦寺の新たな僧兵で、天台座主の尊朝法親王の許しを得、光秀に与したものだった。かれらの多くは、叡山焼き討ちの際に犠牲となった者に所縁ある僧侶だったが、このたびの挙兵は復讐というよりも仏法を護らんとする使命に鎧われていた。さらに、加えて本願寺の勢力が盛り返したこともあり伊勢長島の一向一揆が再燃して紀州の雑賀衆および根来衆と合して長島城へ押し寄せた。

 

 かれらの猛攻はたちどころに賤ヶ岳の砦を崩し、越前の山野を抜き、北ノ庄城を陥落させた。北ノ庄が焼亡した際、勝家は自刃して果てたが、そのほかの者は山岳を踏み越えて南へと向かい、尾張国へ入った。知多半島の突端の野間なる僻へ き陬す うまで落ちていき、やがて信孝は大御堂寺(野間大坊)の塔頭安養院にて自害した。残された武将らは力を喪失し、明智方の軍門に下った。

 

監修・文/秋月達朗

歴史人電子版『戦国武将5人の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?』より

KEYWORDS:

過去記事

秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

最新号案内

歴史人 2021年12月号

武田三代 栄華と滅亡の真相

戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐源氏・名門武田家はなぜ滅亡したのか? 甲斐統一から甲州征伐まで、その全軌跡を追う。 甲斐統一を成し遂げた武田信虎、戦国の世にその名を轟かせた武田信玄、父の名声と戦い続けた武田勝頼。甲斐武田家に隆盛をもたらした三代に改めて迫る。信玄の天才ぶり、君主を支えた家臣団の実力、武田家にかかわった女性たち…など、武田家にまつわるすべてを徹底解説する。