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賤ケ岳合戦で活躍した「先駆衆」石田三成の実像とは? 〜石田治部少輔三成〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝(番外編) 〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第13回

「戦さ下手」のイメージも賤ヶ岳合戦では活躍していた

 

文官のイメージが強い石田三成。賤ヶ岳合戦の頃はこれといった実績もなく、兵站任務とともに命をはった槍働きも同時にこなしていた。 イラスト/さとうただし

 

 秀吉の天下取りのスタート地点になった「賤ヶ岳合戦」では、加藤清正・福島正則ら「7本槍」のみが喧伝されているが、当然のことながら7本槍だけで合戦に勝利したわけではない。7本槍の中心が、尾張周辺出身の「秀吉子飼い」であったことから、ことさらに手柄が強調された部分もある。

 

 一方で石田三成・大谷吉継(よしつぐ)・一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)・石川貞友(さだとも)ら近江出身の家臣団も活躍したことはあまり知られていない。だが、秀吉は(後になって誰かが言い出したことかもしれないが)三成らの活躍を褒めて「賤ヶ岳先駆衆」と称した。つまり、賤ヶ岳合戦の時点では秀吉の供回りの中に「7本槍」と「先駆衆」の2組の一番槍集団があったことになる。

 

 ここでは、そのうちの2人を紹介しよう。

 

 先ず三成だが、秀吉の合戦では一般的には裏方(兵糧・兵站など)が担当であって、武力では劣っていたように伝えられている。事実、秀吉の小田原征討戦で三成は、北条方の武蔵忍城攻撃の総大将に任じられながら、水攻めを強行し、失敗したことになっている。この水攻めの失敗はひとえに秀吉の命令を忠実に果たそうとした結果であったが、三成は「戦さ下手」という汚名を着せられることになった。この「戦さ下手」という汚名が、この後三成には終生付きまとうのであった。

 

 しかし、それ以前の秀吉の合戦では、三成は裏方の仕事は勿論、戦場でも手柄を立てているのだ。その象徴的なものが「賤ヶ岳先駆衆」としての手柄であった。

 

 この直前まで三成は、秀吉と共に岐阜城攻撃に向かい、柴田勝家の先鋒・佐久間盛政(もりまさ)が動いたことを知り、岐阜城からの大返し(中国大返しに似た大規模なユーターン作戦)の中心を担った。陣地を構成するための人数や食糧・費用を捻出するとともに大返しの道筋をスムーズに通過するための準備もすべて三成の仕事であった。

 

 その後の賤ヶ岳合戦では、三成も大谷吉継・一柳直盛、石川貞友らと一緒になって一番槍の手柄を目指した。一方で、7本槍組は十数人が一団になって駆け、先駆衆は先駆衆で一塊りになって駆け下った。秀吉は、近習・供回りを競わせたのであった。

 

 先頭を行く石川貞友が、目の前に立ちはだかった雑兵を槍で突き刺した。そのすぐ後ろにいた三成も、新たな敵の雑兵の首を槍で刺し貫いた。そのうちに、兜首を落とした大谷吉継が三成の隣りに来ると、「佐吉(三成)、力を抜け。力を入れすぎると、疲れが先に来るぞ」と励ました。三成は、槍を持つ手をそっと優しく握り返した。

 

 こうして、三成は3つ4つの首を取った。だが、首はそのまま置き去りにした。腰になどぶら下げたら、その重みで動けなくなる。これも吉継のアドバイスであった。賤ヶ岳合戦は、秀吉軍の圧倒的勝利であった。

 

 三成が長浜の家に戻ったのは5月5日。その日、三成は妻が初めての子を身籠もっていることを知らされたという。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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