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9人目の七本槍! 合戦で負傷した桜井佐吉の死の謎とは? 〜桜井佐吉家一〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝(番外編) 〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第12回

勇将・宿屋七左衛門尉を討ち取った3年後、実は死んではいなかった!?

 

賤ヶ岳合戦の後、秀吉の弟・秀長、その養子・秀保に仕えたと伝わる桜井佐吉家一。 しかし、家臣時代の功績などは記録に残されておらず、その人物像には謎が残る。 イラスト/さとうただし

 

 秀吉が天下人としてのスタートラインに立った賤ヶ岳合戦。そこで天下取りのライバル柴田勝家と戦い、勝利を決するような素晴らしい働きをした秀吉子飼いの戦闘集団を「賤ヶ岳の七本槍」と呼んだ。そもそも子飼いの家臣団がなく、勇将・猛将といわれるような強い武将を家臣に持たない秀吉が「ウチにはこんなに素晴らしく、強くしかも若い武将がいるぞ」と喧伝するための、広告塔だったといわれる。賤ヶ岳合戦では7人ではなく、実は9人の若い武将が活躍して、実際に秀吉から特別な感状(表彰状のようなもの)を貰い、領地3千石を賞品として与えられている。

 

 だが、この9人のうち2人がその後、勇士の列から外された。前述した石河兵助は賤ヶ岳で討ち死にしたためであり、もう一人の桜井佐吉は、間もなく病死したから、と伝えられる。この「賤ヶ岳七本槍」という呼び方は、今川義元と織田信秀(信長の父)とが戦った小豆坂(あずきざか)合戦で、織田方の勇者7人が勇猛果敢に戦ったことから「(小豆坂)七本槍」と呼ばれたことに因んで、秀吉が後に命名したという。そのうえに「9本より7本の方が語呂がよい」ということもあって『太閤記』などにも記されて、7本槍が定着したのだった。秀吉にとっては、織田家に因(ちな)む何がしかの理由付けも欲しかった、というのが。実際のところではなかったか。

 

 この7本槍(9本槍でも同じことだっただろうが)のうち、関ヶ原合戦で、西軍(豊臣方)として戦ったのは、ただ1人であった。

 

 石河兵助の他に7本槍から漏れたのは、桜井佐吉(家一)である。佐吉は、柴田方の宿屋七左衛門尉と槍を合わせた。しかし、宿屋は勇将であり、佐吉は切り立てられて肩に傷を負った。危うく討ち取られる寸前に、粕屋武則が加勢に駆け付けて2人は力を合わせて、この難敵を倒した。武則が相手の胸板に槍を突き刺し、止めを刺したて討ち取ったのは、佐吉であった。

 

 そこに、七右衛門尉の弟・次郎助が「兄の仇」とばかり2人に大太刀で撃ち掛かってきた。負傷していたが、佐吉が応じた。太刀を合わせたが、火花が散るばかり。やがて双方ともに、太刀を捨てて組み討ちとなった。組んずほぐれつ、上になり下になりするうちに、佐吉が次郎助を組み伏せた。脇差しを鎧の隙間に刺し入れて、とうとう佐吉が次郎助を討ち取ったのだった。秀吉の眼前に近く、こうした武勇を展開した佐吉は、晴れて9本槍の1人とされたのだが、この3年後に、この時の傷が元であったか、病気であったか、いずれにしても死亡したので、いつしか石河兵助とともに、勇士から外されてしまった、と伝えられる。

 

 だが、別の説によれば(『川角太閤記』)、佐吉は秀吉の子飼いから、弟・秀長に仕え、さらに秀長没後はその養子・秀保の家臣となった。そして文禄5年(1596)に病死したことになっている。もしこの1説の通りであれば、佐吉は数年後に亡くなっていないことになる。とすれば、賤ヶ岳の活躍や7本槍からの除外はどういうことなのか。疑問は残ったままである。

 

 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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